サーフィンは決められた時間内に好きなだけ波に乗り、良かった技の難易度や出来栄えを競う。波をとらえる感覚に優れる五十嵐の武器は、加速していくスピードだった。
初めてチャンピオンシップツアーに参戦した3年前、身長180センチの五十嵐の体重は70キロ程度だった。父の言葉を借りれば、
「ツアーサーファーになると、F1のマシンと同じくらい、微妙な数値がパフォーマンスに影響する」
体重が1キロ増えると、板の浮力は合わなくなり、代えなければいけなくなる。それでも、体の軸を安定させ、さらなる加速につなげるため、本人は10キロ増を目標に定め、板を代えながらトレーニングを重ねてきた。
「できあがっていく体に対して、うまく適応できず、悩んでいた。それが、ようやく合ってきた」
と勉さんはみる。
カノアはサーフィンが盛んなハワイの言葉で「自由」を意味する。そんな名前をつけられた五十嵐は幼少期から、
「天才サーファー」
と言われてきた。
サーフィン好きだった日本人の両親が、1995年に米国へ。五十嵐が生まれたのはカリフォルニア州で、自宅があったのはサーフィンの聖地といわれるハンティントンビーチだった。父の姿に憧れ、3歳からボードに乗った。
異国での競技生活に、苦労もあった。採点競技のサーフィンで、
「東洋人の子どもが米国で勝たせてもらえるとは思ってもいなかった」
と勉さんは言う。
はじめのころは、五十嵐が勝っても周囲からは喜ばれなかった。それでも、本人は、
「大丈夫。俺は負けないから」
と平然としていた。結果で周囲を認めさせていく。11歳のとき、全米のアマチュア大会で年間30勝の最多記録を樹立。12歳で全米王者になるころには、万雷の拍手を受けるようになっていた。
サーフィンの素晴らしさについて、五十嵐はこう言う。
「世界中の誰とでも仲良くなれる。波がある場所を聞いたり、一緒に波に乗ったり。僕はそれがなにより好きなんだ」