――公害問題などを取り上げる雑誌「環境破壊」で取材・執筆する機会を得たことがステップになる。

 水俣病の取材のために、朝5時くらいに本県の水俣に着いたんです。でも、ほとんど当てがなくて、途方に暮れました。やがて30代くらいの漁師に出会った。彼の父親が認定患者だったかな。

 男っぷりのいい漁師で、知り合ったばかりの僕を船に乗せてくれたり、一杯飲もうと誘ってくれたり。そうこうしているうちに夜が更けたから、泊まっていけ、と。そこからいろんな人を紹介され、話を聞くことができたんです。

 患者たちの悲惨な状況を知り、ショックを受けたんだけども、こんなに親切にしてもらえる、とは思わなかったんですよね。水俣の現場を離れても、帰り道でも温かい気持ちに包まれました。

 こういう仕事をやっていけたら、と思い至ったのはそのときです。いまも、そんな帰り道の幸福感が原動力になっています。

――臓器移植の問題に取り組んだ『空白の軌跡』を上梓し、ノンフィクション作家として地歩を築く。ある患者との出会いが忘れられない。

 難病で国立循環器病センター(当時)に入院していた仲田明美さん(当時28歳)です。酸素マスクが必要で寝たきりの状態でした。僕は思わず、退屈でしょうと口にしたんです。そして、こんな深い言葉を聞きました。

「じっと空を見詰めていると、空の雲は一刻も休まず流れている。そんなときほど、あぁ生きているんだなぁと思う。酸素の補給を受けつつ寝たきりになっても、結局、一日一日をきちんと生きるということしかないんですね」

 何度か会ううちに、仲田さんから大学ノートにしたためられた日記を託されました。

 仲田さんは、心肺同時移植に一縷(いちる)の望みをかけていた。受け入れ先の米国スタンフォード大学から連絡がないので、取材を兼ねて同大学のシャムウェイ教授を訪ねていったんです。けれども、「彼女の場合は、病気が進んでいるから移植の対象にならない」という答えでした。

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