「われ岩手花巻町の鎮守 鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて 天上はるかに流れきたる玉音の低きとどろきに五體をうたる 五體わななきてとどめあへず。玉音ひびき終わりて又音なし この時無声の号泣国土に起り、普天の一億ひとしく 宸極に向ってひれ伏せるを知る」
光太郎は戦後、自らの戦争協力を反省し、7年間独居自炊の生活をしたという。
秋田・稲住温泉に疎開していた武者小路実篤は終戦を翌16日の新聞で知った。家族が泣いている姿を見て「僕も残念に思うが、仕方がなかったのだと思う、しかし今後いろいろ、面白くないこともあろうかと思うので、当分ここに籠城するつもり」(「稲住日記」)と記している。井伏鱒二は玉音放送のあった日を「8月14日」と記している。これは新聞が届かず「日付を間違っている気がする。新聞が何日も届かないのでよくわからない」からだった。
無関心派も少なくない。三島由紀夫はただ「そこにはなにもなかった」と記すのみで、川端康成はほぼ何も記録に残していない。青森の実家の居間で玉音を聞いた太宰治はただ「ばかばかしい」を連発していたという。
素直な感想を詩に書き残したのは佐藤春夫だ。佐藤はその日、疎開先の佐久で高性能ラジオを所有する家まで歩き、これを聞き、「炎天下の短い我が影を踏みながら近い道を深くうなだれて」帰宅して、「稍遠き家にてラジオを聞きての後」として詩を書いた。
「ありがたさなみだながれて/仰ぎたる天つ日まぶし/耳底にあぶら蝉なき/己が影をふみつつかえる」
佐藤は終戦後も佐久に長い間とどまった。
では、当時18歳だった吉村昭はどうか。浦安のクリーニング屋から聞こえてくるラジオに耳を澄ませた。「ポツダム宣言受諾という天皇の言葉に、体が一瞬氷のように冷えるのを感じた。それが連合国の日本降伏を要求するものであることを知っていたからである。『負けたぁ』私は、吐くように言った」(『白い道』)。すると、「突然胸ぐらをつかまれて漁師に『なにを貴様。負けたとはなんだ』漁師の目には憤りの色が浮かんでいた」(同書)と記している。
戦争中、出版の機会を奪われた作家たちによって戦後文学が花開くのは、この数年後のことである。
(本誌・鈴木裕也)
※週刊朝日 2019年8月16日‐23日合併号