太宰治(左)、永井荷風 (c)朝日新聞社
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江戸川乱歩 (c)朝日新聞社
江戸川乱歩 (c)朝日新聞社

 今年も終戦記念日が近づいてきた。74年前、文豪たちはそれぞれの思いで玉音放送を聞いた。作家たちが書き残した文章からは、それぞれの「戦争」への関わり方だけでなく、当時の人々の生活も垣間見える。夏休みの読書にいかがか。

【写真】江戸川乱歩

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 終戦の1日前、昭和20年8月14日、永井荷風は谷崎潤一郎と会っている。3月の東京大空襲で焼け出され、疎開先の岡山市でも空襲に遭い、ほとんどすべてを失っていた。当時、岡山県北部の勝山町(現・真庭市)に疎開していた谷崎は盟友の身を案じ、勝山に移り住むことを提案していた。13日の列車で勝山に着いた荷風は谷崎の用意した宿に1泊、翌昼谷崎の居宅で食事しながら移住について話し合ったが、荷風は移住を辞退。

 谷崎は日記にこう書き残した。

「本日此の土地にて牛肉一貫(200円)入手したるところへ又津山の山本氏より一貫以上届く。(略)夜酒二升入手す。依って夜も荷風氏を招きスキ焼きを供す。(略)今夜も九時半頃迄二階にて荷風先生と語る」

 荷風の日記『断腸亭日乗』はこう続ける。「九時過ぎ辞して客舎にかえる、深更警報をききしが起きず」。

 翌15日、荷風は岡山へ向かう午前11時過ぎの汽車に乗り、車中で谷崎夫人が持たせた弁当を食べる。「白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添えたり、欣喜措く能わず、食後うとうと居眠する」(『断腸亭日乗』)。岡山駅到着は午後2時。荷風はおそらく玉音放送の時間、居眠りしていたとみられる。

 一方の谷崎はどうか。荷風を見送り帰宅すると、正午から天皇陛下放送があるとの噂を聞き、ラジオを聞くため近所の家に行った。「十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音を聞き奉る。然しラジオ不明瞭にてお言葉聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみほぼ聞き取り得」(日記より)、帰宅する。家人から無条件降伏を受諾したことを告げる放送だったと聞くが、「皆半信半疑なりしが三時の放送にてそのこと明瞭になる。(略)家人も三時のラジオを聞きて涙滂沱たり」(同)。

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