一番なりたかったのは、外国航路の客船のコックなんですよ。地元の港に大きな客船が入ってきたとき、料理人が休憩してるのを見かけたんです。白いコックコートとコック帽がカッコよく見えてね。それに料理人になれば食事がついてくるから、ひもじい思いをしなくていい。

 おなかを満たすために料理人になったと言ってもいいかもしれません。

 中学校の紹介で大阪の仕出し弁当屋に住み込みで働きました。朝3時ごろ起きてご飯を炊き、おかずをつめて冷まして、お昼までに会社に配達に行く。釜いっぱいに炊いたご飯のおこげの部分が朝ご飯だった。あれがおいしくてね。

――ここで最初の大きな出会いがあった。4歳ほど年上の先輩だ。

 最初から「いつかは料理人になり、自分の店を持って一国一城の主になる」と周りに言い続けていました。すると、ある先輩が「ここにいても料理人にはなれない。フランス料理がやりたいんだったら、紹介してやるから」と大きなホテルを紹介してくれた。先輩は同じ九州の出身で、いろんな話をしていた人です。彼に出会ってなかったら、僕のいまはありません。

 ホテルに入ると、茨城県のゴルフ場のレストランに配属されました。でも、そのころはフランス料理といっても洋食のようなもの。ハンバーグやシチュー、ミートソースやナポリタン、という時代でした。

 厨房(ちゅうぼう)では石炭ストーブを使っていて、冬は朝、先輩たちが来るまでにストーブをあっためておかなきゃならないんです。営業が終わったら最後に炭をかき出して、火を落とす。スポンジも洗剤もなく、ヘチマに灰をつけてピカピカになるまで鍋を磨いたものです。

 けっこう要領がいいもんだから、先輩たちに可愛がられましてね。「ちょっと味見とけ」なんて言われました。意地悪な先輩は料理が終わったらすぐに鍋を水に漬けちゃいます。可愛がられたほうが仕事を早く覚えられるんです。

――夜学にも通って料理を学んだ。旺盛な好奇心と向上心が認められ、19歳のときにオーストラリアのレストランで働くチャンスを得る。

 若気の至りで、英語もわからなかったけど、料理人は「これを切れ」と言われたら切れますからね。魚も器用におろせたので、どんどん仕事をもらった。1年8カ月後に帰国して東京・数寄屋橋のレストラン「四季」に勤めるようになるんです。

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