あのときはつらかったなあ。
でも彼らがすごかったのは、僕を見捨てなかったこと。運転手兼司会者として雇ってくれたんです。
ある日、ニッポン放送の彼らのトーク番組に調整室で立ち会ってたんですよ。
いいなあ、僕もあんなふうにラジオでしゃべりたいなあって見ていたら、当時の上野修プロデューサーに声をかけられた。
「君、何してるの?」って。当時からいい加減なことばっかりしゃべっていた僕のことを、おもしろがってくれたんだろうね。
「よし、来週から来なさい。それから芸名を考えてあげよう」
千に三つぐらいしか本当のことを言わないホラ吹きのことを「せんみつ」って言ったんだけど、僕の名前が光雄なのもあって、それで「せんだみつお」が生まれたんですよ。
――そこから快進撃が始まった。ラジオのリポーターとして活躍し、テレビのバラエティー番組でもひっぱりだこ。映画にも出演するようになった。
いろんな人のコンサートの司会もやりましたよ。アンドレ・カンドレ(現・井上陽水さん)なんて、売れてなくてね。同じ中央線沿線だったから、よく一緒に帰りました。
「ビールの空き瓶を酒屋へもっていくと5円くれるらしい」なんて話をしたりしてね。
泉谷しげるさんとは仲いいんだけど、昔は“反逆児”だったな。今じゃすっかり演技派になってる。
そんなふうに、後に大物になった当時の仲間もいるけれど、昔の姿を知ってるだけに、今の活躍を見るのはほんとに楽しいもんですよ。
そうこうするうちに、僕も売れっ子になりました。
でも、倒れちゃってね。ロケで食べたお弁当にあたって肝炎になっちゃった。それで4カ月間、入院しました。それが昭和53(78)年。芸能界はちょうど、潮の変わり目に差し掛かっていたように思います。
退院後もいくらかレギュラーのお仕事は残ってましたが、だんだん、僕の出番は少なくなってしまった。
そのうちに漫才ブームが訪れて、タモリさんや所ジョージさんのような笑いがもてはやされるようになったんです。
やがて関西のお笑い芸人がどっと押し寄せて、テレビから関西弁が聞こえてくるようになった。