――芸能界に入ったのは、母親の影響が大きかったという。
昭和22(1947)年、樺太で生まれました。父は製紙会社の技術者だったんです。
戦争に負けてソ連に工場ごと接収されたけど、父は厚遇されたみたい。ぶんどったものの、使い方がわからなかったんだね。
親に聞いたことがあるんですよ。敗戦直後で明日をも知れないときによく僕を作ったねって。そしたら「次に戦争するときに、兵隊さんが足りないと困るから」って。昔気質のおやじでした。
母親は東北出身の、面倒見のいい人でね。芸能界に進んだのも母の影響かな。小学校2年生のときに、親戚のお兄さんと手をつないで新宿を歩いていたら、児童劇団からスカウトされたんですよ。
劇団の人の名刺を受け取った母は、すぐに隣の家へ電話を借りにすっとんでって話をつけちゃった。その瞬間からもう、母の中では息子は大スターですよ(笑)。
それから何年か、子役として舞台に立ったりもしました。
轟夕起子さん主演の舞台、イプセンの「人形の家」で、主人公ノラの長男役をやったんです。共演の北林谷栄さんには可愛がっていただきました。
子役の仕事は小学校のうちにやめてしまったんですが、次に大きな転機だったのは、ビリー・バンバンの弟、菅原進と知り合ったことでしょうね。
今でもよく覚えてますよ。
中央線の荻窪駅の階段下で、友達の紹介で進と会ったんです。学校は違ったけれど年も近くて、すぐに仲良くなりました。
それからもう54年の付き合い。お互いの弔辞まで考えるぐらいになったんだから、人生わかりません。せっかく生まれてきて、親友に出会えたっていうのは素晴らしい、ありがたいことだなって思ってます。
彼の家にもよく遊びに行きました。彼とお兄さんの孝さんが作曲家の浜口庫之助先生のところに弟子入りしてたんです。それで僕も連れていってもらってね。
やがて進と僕と、友達ふたりを加えて4人で結成したのが最初のビリー・バンバンだったんです。
浜口先生の家の庭にブランコがあってね。それを見て進が18歳のときに作ったのが「白いブランコ」。僕らもずいぶんあちこちの、今でいうフェスに出演しました。
プロとしてデビューすることになったとき、友達は就職のために離脱。
ならば菅原兄弟と僕と3人で……って思っていたら、兄弟ふたりでってことに決まっちゃった。