──留学は何年くらい?
4年です。あまりにも寂しくて、その間にアメリカ人の同級生とできちゃった結婚しました。親に手紙で妊娠を報告したら、もうパニックですよ。父から「どうするんだ!」という20枚にわたった手紙がきたけれど、「産むから」って突っぱねて。結果、勘当されて金銭的な援助は一切なくなり、極貧生活に。2年くらいそんな生活をしていたら、心配した母親が弟と一緒にアメリカのド田舎にやってきてね。母が父親に懇願して日本に戻りました。幼い娘はもちろん、大学を卒業した夫も一緒に。
──帰国してからは何を?
80年代、バブルの走りの頃でしたから、夫婦ともに英会話講師の仕事はあった。私はフリーランスで英会話講師をしていたんですが、当時、家庭用のビデオデッキが発売されたの。デッキを売るためのソフトとして、海外の日本未公開映画を日本語に翻訳する事業を手掛ける会社に、英語ができる人たちが集められた。そのメンバーに入れたのは母親のおかげ。母がサウナで「うちの娘は英語ができるんだけど仕事はないかしら」と話していたら、たまたまそこで働いていた人がいて。「今、翻訳者を探してるんですよ」って声をかけてくださった。
──それが映像翻訳のスタート?
そう。最初はフリーランスで字幕翻訳だけをしていたけれど、テレビのニュースの翻訳の仕事も始めたの。そのきっかけも母。当時、父と母の間でバトルが勃発してワイドショーネタになり、それを取材していたテレビ局の人とつながりができた。母は「うちの娘は英語ができて……」と、あっちこっちで言うわけですよ。帰国後に生まれた2人も含め子ども3人を育てながら、字幕とテレビ局の二足の草鞋で13年間フリーで翻訳を続けました。私は2回結婚しているんだけど、最初の夫とはうまくいかなくなって、結婚15年目に離婚しています。会社を作ったのはその5年後ですね。
──起業したのは、なぜ?
フリーの翻訳者は、徹夜しながら地味にやっているわけですよ。起業は39歳の時だったけど、10年後もこれで食い続けていくには体力的に無理だろうという思いがあった。それとテレビ局の人から「韓国語ができる人、知らない?」などと相談されるようになったんです。何とかしてあげたい気持ちがわいてきて、ツテをたどって紹介していたら、頼まれる回数が増えて。字幕翻訳も含めてやることが増え、一人ではできないからどちらにしろ人に頼まなきゃいけない。それなら組織化して仲介業をやろうと。私はいつも社員に「困っている人を助ける気持ちが仕事につながるんだよ」と言ってるんです。