メールも携帯もなく、国際電話料金も高かった時代、留学先でつらいことがあっても、母国への連絡は手紙だけ。「書くのが面倒で涙も乾いた」と笑い、「困った人を助けたい」と思う。周りの人に振り回されっぱなしという翻訳者の山下奈々子さんの人生を、キャリアカウンセラーの小島貴子さんが聞いた。
* * *
──山下さんはご自身も翻訳者であり映像翻訳の会社を経営しています。語学に関心を持ったきっかけは?
英語への関心や、翻訳の仕事に対する憧れもなかったんです。中高時代は「エリザベス・サンダース・ホーム」をつくった澤田美喜さんや「ねむの木学園」の宮城まり子さんの本に感銘を受けて、福祉系の大学に行きたいと考えていた。ところが高校3年の夏、弟が参加するはずだった3週間のアメリカのホームステイに本人が行けなくなり、代わりに参加したらアメリカっていいなぁと思ったのね。それならアメリカの大学に進学しようと。実際は、受験勉強から逃げたかっただけ。
──当時の留学は珍しかった?
日本の高校からダイレクトに留学するルートはほとんどなかった。父親が「自分で手配できるならお金を出す」と言うので、書店で見つけた本の著者、留学カウンセラーの栄陽子さんに会いに行きました。「どこに行きたいの?」と尋ねられ、何が勉強したいわけでもなかったから、「日本人が誰もいないところ」と。栄さんが教えてくれたアメリカ東部の田舎町にある大学に行きました。
──留学生活はどうでしたか?
田舎町で日本人は珍しいから、外を歩くと地元の人に頭のてっぺんから爪先までジロジロ見られる。でも学校ではそんなことはなかったわね。キリスト教系の全寮制の学校だったので、みんな普通に接してくれた。もちろん、つらいことはありましたよ。でも、当時はメールもないから泣き言が簡単に言えないわけ。親からも「電話は高いからかけてくるな、手紙しかダメ」って言われて。泣き言を言う前に、忘れてしまったわね。