人生に「if」はありませんが、著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回はコメディアンの小松政夫さんです。オヤジさんと慕う植木等さんの存在は、芸人としての師匠を超えたものだったと振り返ります。
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クルマのセールスマンをしていた21歳のときです。ビアホールに置いてあった雑誌を開くと、求人広告が目に留まったんです。
「植木等の付き人兼運転手募集。やる気があるなら、面倒見るョ~~」
「これだ!」と思いましたね。絶好の茶箪笥、いやチャンス。大草原に四つ葉のクローバーが、ほら摘んでくださいと言わんばかりにピョーンと立っているように見えました。
あの雑誌を手に取らなかったら、今ごろ何をやっていたんでしょうね。もしほかの芸能人の付き人募集だったら、応募してないでしょうね。
当時は営業所のトップセールスマンで、大卒初任給の10倍ぐらい稼いでいました。ほとんど休みなしでがむしゃらに働いて、毎週日曜日の夜、横浜のビアホールにあった大きなカラーテレビで、「シャボン玉ホリデー」を見るのが楽しみ。ブラウン管の中の植木等は大スターですよ。
求人広告には600人ぐらいの応募があったそうですが、面接して数日後に採用の連絡をもらいました。仕事柄、物腰も言葉遣いも身についていたし、お金があったから服や靴だってパリッとしてましたからね。自分は運がよかったんです。
――こうして小松は1964年、植木等の付き人になった。もともと生粋の博多っ子。幼いころから人を笑わせ、喜ばせるのが好きだった。
子どものころ、家に友達を呼んで、バナナのたたき売りの口上なんかを披露していたんです。お菓子をふるまって、独演会です。
父は実業家で、僕は小さいころはかなり裕福な生活をしていました。中学のとき、父が急死して、生活は一変しました。
高校を卒業後、俳優を目指して上京。俳優座養成所の入所試験のとき、道に落ちている10円玉を見つけて、さあどうするかみたいなことをやったんです。キョロキョロして、素知らぬ顔で靴を脱いで、足の指でそっとはさんで……なんてことをやってたら、合格しちゃった。
でも、入学金が工面できなくてね。結局諦めました。
それからいろんな仕事をしましたね。魚市場、花屋、はんこ屋、コピー機のセールスマン……。クルマの販売店にコピー機を売りに行ったとき、ブルドッグみたいな怖い顔した営業所の責任者の部長に「お前は見込みがある。ウチに来い」って言われたんです。それでクルマのセールスマンになりました。
口八丁で、ノルマは達成。報奨金が出たら宴会です。僕は、盛り上げ役を買って出ました。幼いころに覚えた露天商の口上など、宴会芸なら引き出しがたくさんありますからね。