●序章より
ニューヨークは、この半世紀の間に一度だけ「ジャズの発信地」としての位置を危うくした。
第二次世界大戦の後、カリフォルニアが一時的に世界中のジャズ・ファンの想像力を掻き立てる。“ウエスト・コースト・ジャズ”という新語が、突如としてもてはやされた。ジャズ・ライターは、まるで戦争のように、ウエスト・コースト対イースト・コースのバトルを取り上げた。
だが、これが戦争であれば、ウエスト・コーストが敗者になった。勝者側はそれを、歴史が如実に物語った最たる例と総括する。ジャズ評論家はこの20年にわたり、一様にウエスト・コースト・ジャズの台頭を異常現象と捉えている。よく言えば、屈折した趣味、悪く言えば、ハリウッドのスタジオによって仕組まれたマーケティング工作という論調である。
それは戦争と同様に、少なからぬ犠牲者を出した。アート・ペッパー(アルト・サックス)は1950年代初期、ダウンビート誌の読者人気投票で2位に選ばれ、1位のチャーリー・パーカーに僅差まで迫った。にもかかわらず彼は、1970年代初期にはすでにジャズ界における名声を失い、簿記への転身を考えていた。また、チェット・ベイカー(トランペット)は1950年代中期、ダウンビート誌の同投票で、ディジー・ガレスピー、ルイ・アームストロング、マイルス・デイヴィスを一蹴し、1位に輝いたものの、1970年代初期にはウエスト・コーストのガソリン・スタンドで働き、給油をしていた。
さらに、ショーティ・ロジャース(トランペット)とジミー・ジュフリー(クラリネット)も、1950年代にはジャズ界の第一線で活躍したが、1970年代を迎える頃には、ロジャースが演奏活動から身を引き、ジュフリーはレコーディングもままならない状態だった。デクスター・ゴードン(テナー・サックス)は、1955年に3枚の代表作をリリースしたが、その後50年代に、再びレコーディングを行なうことはなかった。彼は1970年代初期には活動の拠点を海外に移し、アメリカでは忘れられた存在になっていた。
こういったミュージシャンはすべて、悪戦苦闘の末、1980年代に復活を果たした。彼らが優れたアーティストとして名声を回復したことはおそらく、当初認められなかったウエスト・コースト・ジャズが再評価されはじめたという最初のシグナルだった。
だが、彼らよりも不運なウエスト・コースター、つまり後年に復活する以前に、初期のブームに乗り遅れたミュージシャンも数多くいた。例えば、ソニー・クリス(サックス)、ハロルド・ランド(サックス)、カーティス・カウンス(ベース)、カール・パーキンス(ピアノ)、レニー・ニーハウス(サックス)、ロイ・ポーター(サックス)、テディ・エドワーズ(サックス)、ジェラルド・ウィルソン(ピアノ)等である。(抜粋)
●著者紹介
テッド・ジオイアは、『ザ・ヒストリー・オブ・ジャズ』(1997年)、『ザ・インパーフェクト・アート:リフレクションズ・オン・ジャズ・アンド・モダン・カルチャー』(1988年、ASCAPディームズーテイラー・アウォーズ受賞)を著し、また、スタンフォード大学ジャズ学科のカリキュラム作成にも携わる。彼はまた、ジャズ・ピアニストとしてレコーディングを行ない、ウエスト・コーストの若手ミュージシャンのレコーディングをプロデュースしている。