大塚篤司/1976年生まれ。千葉県出身。医師・医学博士。2003年信州大学医学部卒業。2012年チューリッヒ大学病院客員研究員を経て2017年より京都大学医学部特定准教授。皮膚科専門医
大塚篤司/1976年生まれ。千葉県出身。医師・医学博士。2003年信州大学医学部卒業。2012年チューリッヒ大学病院客員研究員を経て2017年より京都大学医学部特定准教授。皮膚科専門医
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「母は、私が発作を起こすたび、夜通し背中をさすってくれました」(写真:getty images)
「母は、私が発作を起こすたび、夜通し背中をさすってくれました」(写真:getty images)

 1980年代は、喘息で年間約6千人が亡くなっていました。吸入ステロイドをはじめとする治療薬の普及により、いまは死亡率が減少し、未成年の喘息死は、2010年には10人まで減っています。子どもの頃、喘息を患っていた京都大学医学部特定准教授で皮膚科医の大塚篤司医師が、当時の状況について語ります。

*  *  *

「ついたよ」

 車の後部座席で寝ていた私は、母親の声で目を覚まします。それでもしばらく寝たふりを続けます。子どもの頃の自分は、父親が車から家まで運んでくれるのを知っていました。ふわっと体が宙に浮き、親の温もりを感じながら空を飛ぶ感じ。車から布団までの移動は、とても温かく心地良いものでした。

 私の専門は皮膚科です。アトピー性皮膚炎などの病気で小さなお子さんも診察します。白衣を見るだけで泣きだしてしまうお子さんや、最後までケロッとしているお子さん。私は物心ついた頃から病院に通っていたので、診察室で泣かない子どもでした。注射や点滴は慣れたもんでした。

 私は気管支喘息(ぜんそく)でした。両親の説明では、2歳の頃に発症したそうです。そしてすぐに入院しました。ぼんやりともやがかかった記憶では、病室の入り口にきれいな花束が飾られていました。酸素が充満したビニールハウスのようなベッドの中で私は入院生活を送っていました。

「篤司は、手足を骨折してるから動いちゃダメだよ」

 決して手足を骨折しているわけではありませんでした。暴れてベッドから落ちないように、父親がついた優しい嘘をなぜか今でも覚えています。

「あの時、篤司はもうダメだと本気で思った」

 私のことを自分の子どものようにかわいがってくれた叔父は、後にそう語ってくれました。

 喘息は窒息で命を失うことがある病気です。私が喘息で苦しんでいた1980年代は、年間約6千人の方が喘息で亡くなっていました。未成年の気管支喘息の死亡者数は、80年から95年までは年間140人から200人。93年に作成された「喘息予防・管理ガイドライン」と「喘息死ゼロ作戦」によって死亡率が減少しました。喘息死は防げる死。吸入ステロイドをはじめとする治療薬の普及により、未成年の喘息死は、2004年に39人、10年には10人まで減っています。

 はじめての入院では苦しかった記憶はありません。つらいと思ったのは小学校に入ってからです。急激な温度変化が誘因となり、季節の変わり目ごとに喘息発作を繰り返しました。

 喘息発作は夜間に起こりやすいと言われています。それは、夜になると副交感神経が優位となり、呼吸に関わる筋肉が休息し、ホルモンの分泌量が減るためです。

 私の喘息も夜中に発作が起きました。息が吸えない状態は本当に苦しかった。ただ、本当につらかったのは母親のほうだと思います。母は、私が発作を起こすたび、夜通し背中をさすってくれました。私は、発作が落ち着くとウトウトしていましたが、母が私より先に寝落ちすることは決してありませんでした。

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大塚篤司

大塚篤司

大塚篤司(おおつか・あつし)/1976年生まれ。千葉県出身。医師・医学博士。2003年信州大学医学部卒業。2012年チューリッヒ大学病院客員研究員、2017年京都大学医学部特定准教授を経て2021年より近畿大学医学部皮膚科学教室主任教授。皮膚科専門医。アレルギー専門医。がん治療認定医。がん・アレルギーのわかりやすい解説をモットーとし、コラムニストとして医師・患者間の橋渡し活動を行っている。Twitterは@otsukaman

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忘れられない「ひげ」の先生