THE SIXTH SENSE
THE SIXTH SENSE

 「女子ジャズ」という言葉を耳にしたことがある人ってどれぐらいいるのだろうか? リアルな言葉の浸透度や認知度がどれ程なのかは定かではないが、ここ1、2年、音楽雑誌なんかをペラペラめくっていると割とアチコチで目にすることができる“言辞”でもあるので、おそらくこの言葉自体に不可解さを憶える人は今じゃあまりいないんだろうなと。そもそも、「鉄女(てつじょ)」や「スイーツ男子」が溢れ返る世の中でもあるわけで。

 さて、この「女子ジャズ」、ただ単に女の人がジャズをやっていても、そこにサクッと当てはめられるわけではないらしい。確かにそうだ。「女史」ではなく「女子」、つまり「女の子」ということなのだから、妙齢というのか、娘盛りというのか、比較的若くて初々しい女性がその対象になるのだろう。そう言えば、安藤優子キャスターを「女子アナ」と呼ぶ人はほとんどいない。という意味でも、昨年引退を発表した才色兼備ジャズ・ピアニストの元祖でもある、大西順子にも「女子ジャズ」という言葉はあまりにも不躾で不釣合いなのだ。

 アナウンサーの世界はさておき、少なくともジャズの世界では、若くて初々しく、当然プレイやパフォーマンスにも秀でた女流の逸材、またはその活躍を総称的に「女子ジャズ」と呼んでいるのである。あるいは、鉄道ラブな「鉄女」同様、これまでいかにも男臭のきつかったジャズの世界に、「ビル・エヴァンスって超男前~」とか何とか言いながら足を踏み込んでいく女の子に対しても、この言葉は使われている。もっと言えば、「女子ジャズ」という言葉の発祥そのものが、女の子たちの屈託のない日常生活や会話の中から生まれたものであり、そこには脂ぎったマチズモが入る余地すらない、所謂「男子禁制ゾーン」の様相すら呈しているのである。

 と、一介のおじさんが傍観的に推測半分の講釈を一席ぶったところで、「女子ジャズ」の「女子ジャズ」たる所以というものはいつまでたっても分からない。ということで、今回ご紹介するのは、昨年11月にデビュー・アルバム『from here to there』で世のジャズおじさんたちを驚嘆させたピアニスト、桑原あい(くわばら・あい)。彼女のトリオ・プロジェクトによる2ndアルバム『THE SIXTH SENSE』だ。

 実はそのデビュー当時に彼女に取材をする機会を得て、色々な話を訊くことができたのだが、何しろ天真爛漫というか、どこにもウソや背伸びがないその言動にハッとしてグッとさせられたことをよく憶えている。ついでに言えば、「ピチピチの若さってヤツは、こんなにも周りをハッピーにさせるものなのかぁ」と、おじさんは羨ましくもシミジミ…。

 そんな、一見どこにでもいそうな笑顔まぶしきハタチの女のコが、ピアノを前にすると瞬く間に獰猛な音楽の獣へと豹変する。もちろんこれは「女子ジャズ」界隈だけに当てはまることではないが、この半ば“意表を突いた”ギャップというものを欲するがために、音楽はおろか芸術~エンタメ一般をぼくらは熱心にむさぼっているのではないか、とさえ感じているぐらいだから。日頃の笑顔がまぶしければまぶしいほど(可愛ければ可愛いほど、というのとはちょっと違う)、ココ一番でのあられもない野性がコントラストとしてグンと際立つというもの。

 獰猛でしなやかな音楽の獣。本能ムキ出しで獲物をチェイスする野生動物のような姿。ジャズの大草原でインパラを時速100kmで追い回すチーター、という絵ヅラを、桑原あいの演奏、あるいはトリオ・アンサンブルの中で軽々と想起してしまった。それほどのスピード感と跳躍力。加えて、飢えに飢えたギラギラ感。理屈では説明することができない能力を持つと言われる彼ら野生動物の未知なる感覚や受容体を、図らずも彼女たちの音楽にオーバーラップさせることに。さしづめインパラは、やせ細りつつある音楽ソフト市場そのものか? …いや、そんなことよりも、本格的な女性上位時代の訪れ、KARAよろしくのガールズ・パワーがいよいよ世界を席巻する日が来たんだ、という実感とそこに漂うある種の恍惚に包まれた自分がいたことに革命レベルの変化があった。

 伸縮自在にゴロゴロ、スコーン、シャナナ…とよく転がり跳ねて歌うピアノ。とはいえ、細腕繁盛ピアニストにありがちな軽さというものが桑原あいにはない。華奢な体型の彼女だが、むしろ心技体、全身全霊、全てのミクロコスモスを浴びせかけたかのような、聴く者にググッと押し迫る、あまりにも肉感的で熱のある“重たさ”がある。これもギャップといえばギャップのひとつだが、この“重たさ”によって、ややもすると軽薄な感じになってしまう部分でさえ、説得力のあるものに仕立て上げられていると言えるのかもしれない。

 ちなみに、この2ndアルバム『THE SIXTH SENSE』は、昨年10月20日、青山のLAPIN ET HALOTで行なわれたワンマンライヴの際に用いられたタイトルでもあり、その名の通り“第六感”というものを「音楽をファクターに考察・理解する実験の場」というコンセプトの下に冠されたものだった。言い換えれば、各々の脳内宇宙に散り飛ぶ音符を拾い集めて、トリオ共通の言語を形づくる場、にもなるだろうか。ともかく、桑原あいトリオ・プロジェクトの感受性の鋭さ豊かさが広く伝播されたこのライヴでは、書き下ろしの新曲が用意され、映像作家によるVJが、第三の眼を開かせるかの如くシュール且つサイキックな視覚効果を与えたのだった。そして、当夜の演目がリアレンジされて本アルバムに収められた。

 例えば、「水」や「水中」といった、その無形無限のリキッド要素や神秘性などにインスパイアしたと思しき楽曲などはまるで、海辺から深海までを泳ぎ潜るトリオ・アンサンブルの未知との遭遇の旅を眺めているかのようだし、第六感の王者とでも言うべき「予知夢」と題された曲には、本当の眠りの中で出逢ったメロディやフレーズを素地にしてできているんじゃないかしらと、そう思わせてしまう独特にして心地のよい浮遊感、酩酊感がある。さらにその対照として、覚醒後キビキビと回転しアドレナリンをタレ流す楽曲も、という具合。第六感そのものについては、人それぞれで捉え方の違いなんかもあるんだろうけど、それでも、ぼくの想像世界に何十年ぶりかでインパラを引っぱり出させてしまったのだから、桑原あいのピアノには聴く者の感覚を鋭くさせ開放させる、やっぱり何か不思議な力があるんだろうな。

 男が「女子ジャズ」を肴に口角泡を飛ばすと、どんどんその主旨から離れていくというパラドックスがある。いつも決まって小難しくて理屈っぽくて、統計学的で筋肉質で…見せかけだけのキレイな着地点を探ってしまう、われわれ男の悪いクセだ。なので、この辺でお開きにしようとは思うが、いずれにせよ、女の、そして女の子の感性はもっともっと予測不能で未知数。ナメてるとエラい目に会う、それが「女子ジャズ」なのだ。[次回5/8(水)更新予定]