対して、以前「親が旧帝大レベルの大学に行かなくてはいけないと言うので、受験が不安で仕方ない」というお手紙を頂き、改めて学歴至上主義の考え方の親がいることを知りました。子どもの考え方は、親の考え方によって本当に変わってくると考えさせられました。
高校の友人の家では、「テレビはNHKだけしか見ない」というルールが常識でした。漫画は読んではいけないという家庭もありました。他人の家のことに、なにが良い、なにが悪いと口を出すことではありませんが、親が教える些細な考え方の違いが子どもの世界を狭めたり、生き方を変えることがあるのは確かです。だからこそ、親は子どもに対し、一人の人間として向き合う重要さを感じます。
■私は「死刑賛成派」
最初の話に戻りますが、思い浮かんだのは、「死刑」という制度の可否に関してどう説明するかです。みんな、子どもに「人を殺してはいけない」と教えるはずです。それは、もはや「絶対的な常識」と言っていいでしょう。世界には、死刑という刑罰がない国がいくつも存在します。死刑に犯罪抑止効果がないことは文献でも実証されており、かつ、冤罪である可能性は完璧に取り除けるものではない、というのが反対派の主張です。
しかしながら、日本には「死刑」という刑罰が存在します。法的に、人を殺すことができるのです。「人を殺してはならない」と教えながらも、法的に「人を殺してもいい」という制度が存在することに対し、子どもが質問をしてきたらどう答えますか?
私は「死刑賛成派」です。あくまで私の意見で感情論になってしまいますが、もし自分の大切な息子が、何をしたわけでもないのに無差別テロに巻き込まれ殺されてしまったら、犯人のことは許せる自信がありません。自分の子でなくてもあまりに残虐な事件を聞くと、ハンムラビ法典があった時代から進化していないと言われたとしても「目には目を」を求めてしまう気がます。10人以上殺しておきながら、1人の死刑で償おうとするならば、それは「目には目を」という平等性さえも欠けると思っています。死刑に最も近い刑罰は無期懲役ですが、たとえ無期懲役になったとしても、刑務所の中でのうのうと生きていること、仮釈放という存在のおかげで釈放される可能性が(微々たるものだとしても)ゼロではないことが、きっと許せないでしょう。