7月14日に75歳で亡くなったプロレスラー・マサ斎藤さんは、日本と米国のリングを股にかけて活躍し、数々の豪快な伝説を作り、ファンからもレスラー仲間からも愛された。
【写真】マサ斎藤さんの思い出を語る新日本プロレスの坂口征二相談役
明治大学の同級生であり、日本プロレスの坂口征二相談役(76)は、伝説の「巌流島の戦い」(編注・1987年に実際に巌流島で行われた試合)も、立会人として見届けた。
19日の新日本プロレスの試合前の追悼ゴングセレモニーが行われた後、坂口氏は長年の友人の思い出を語った。
「俺は柔道部で、彼が大学を卒業する時に『俺は日本プロレスに入る』と言ったので、体育会(系クラブ)の皆で送別会をやった。まさか俺が3年の後に行くとは思わなかったよ(笑)。彼はアメリカ(のプロレス)に行ったけど、アメリカから帰って来てくれて、猪木さんといい試合を戦ってくれた。社長(アントニオ猪木)が引退して、マサも引退した後は、渉外部長をやってくれて外国人(レスラー)の係をやってくれた。具合が悪いとは聞いてて気にしてはしていたけど、こういうことになって寂しいね。人柄は朗らかで面倒見のいい、新日本プロレスの後輩とか、長州とか皆慕っていた」
ゴングセレモニーで遺影を持ったタイガー服部レフェリー(72)も、マサさんとの思い出を振り返る。
「(明治)大学レスリング部で3年上。マサさんが卒業してプロレスにいった後は、(僕が)アルゼンチンや米国でアマレスの大会で行った際に現地で会った。そしてプロレス界に導いてもらった。半世紀以上の付き合い。当時だし、体育会だから、1年生にとっての4年生は神様のようなもんだけど(笑)。プロレスやったら、120%レスラーだった。実直というか」
坂口氏はマサ斎藤さんの試合を笑いながら懐かしむ。
「俺と長州力とマサ斎藤とかとの試合とか、覚えてます。試合をやる時は目いっぱいやって、そういう奴だったね。あと巌流島、立ちあったけどね(笑)。長い1日だった。あいつもよくやったよな。色んな思い出があるよな。大阪城(ホール)でもね、暴動がおきたり。原因をマサが作ってくれたりして(笑、編注 1987年3月26日に大阪城ホールで行われた、アントニオ猪木vsマサ斎藤の試合中に謎のマスクマンが乱入して試合が台無しに。起こった観客が暴動を起こして警察沙汰になった)。(ビッグバン・)ベイダーが連れて来たあの野郎、『出場禁止にしろ!』と怒られて俺は謝りにいったよ。大阪城にも謝りにいったよ。両国(の暴動の際)にも謝りにいったよ(笑)」
坂口氏は亡き友を「昭和の時代のレスラーだよね」と称えた。