カネへの執着もすでに見てとれる。小学部高学年のころ教諭に、
「先生、僕は大きくなったらカネもうけするから、億の単位で貸してあげる」
と言って驚かせた。
「金持ちにならなきゃ」
が口癖だった。
小学部5年のとき、麻原は児童会選挙で会長に立候補した。落選すると、職員室に行って親しい教諭を教室に呼び出し、その面前で声を上げて泣いた。
「先生が落としたんだ。みんなに『票を入れるな』って言ったんだろう」
驚いて、教諭は尋ねた。
「どうして、そんなごまかしをすると思うの? 智津夫君は、みんなに好かれていると思う?」
「うん」
「どうして?」
「僕は3カ月前も前から、『よろしく』って、みんなにお菓子を配ったから。寄宿舎で出るおやつをためて」
教諭は「この子はとんでもない勘違いをしている」と感じた。すると麻原は泣き腫らした真っ赤な目で、
「僕には人徳がなか」
と漏らした。
しばらくたってから、配ったお菓子は、ほかの児童から奪ったものだったことがわかった。
中学部、高等部でも生徒会長に立候補したが、落選。寮長の選挙にも落ちた。
将来の自活のため、地道な努力を重ねるしか無い全盲の仲間たちの中で、いくらかでも外の世界を見ることができて、力にモノをいわせられた少年は、「王様」であり続けた。ところが、選挙には落ち続け、自己顕示欲を満たしきれなかった。そうした複雑な欲求不満を抱えたまま、麻原は75年3月に盲学校を卒業した。
最初は眼科医を目指していたが、当時は視覚障害があると医師免許を取れなかったため、断念。卒業して半年ほどたつと、麻原は数人の教諭に電話をかけ、
「中国に行って鍼灸の勉強をしたい。漢方薬の勉強もして、中国に東洋医学の研究所をつくりたい。だから餞別をください」
と頼んだこともあった。
卒業の翌年に麻原が数カ月間働いた熊本市内のマッサージ店主は、こう話す。
「大学受験のために、よく勉強していた。熊本大に行くのかと思って聞いたら、『あんなところは、おかしくて行かれん。東大か早稲田に行く』と。自負心が強くて、うぬぼれているところがありました」