野崎氏は7人きょうだいで、実家は酒屋。両親と仲が悪かったという。
「実家の酒屋に対抗して自分も酒の卸業をやっていた。母親から相続した遺産を元手に金貸し業を始めたのが当たった。昔だから法律も甘く、年利36%とか取れた。東京に進出し、街頭で当時は珍しいフリーダイヤルの番号が書かれたティッシュを配っていた。社長は歌手の仁支川峰子(当時・西川峰子)と親しいと吹聴し、写真入りのものを配っていた。すると、またたく間に多重債務者が次々と借りに来たそうです」(同)
仁支川氏の事務所はこう答えた。
「本人に聞いたら、『30年ほど前に、野崎さんから頼まれて、ショーをしただけの関係。それ以降、お金をいただいたこともなく、個人的に誘われたことも一回もないわ』と言ってました」
本誌が最後に野崎氏に会ったのはちょうど1年前。2度の脳梗塞を起こし、足腰が弱り、よちよち歩きだった。
「実は身体障害者になったんや。だが、若い娘と金儲けに興味がなくなったら、わしは終わりや」
それが最後の言葉だった。
謎に満ちた死のミステリーが解ける日は来るのか。(本誌・上田耕司/今西憲之)
※週刊朝日 2018年6月22日号