まず頭に浮かんだのはアインシュタインやレオナルド・ダ・ビンチの肖像画。あと山下清の顔(正確には芦屋雁之助の顔)。「この3人はジーニアス、使わないだろうな……」

 その後から長嶋茂雄も「んー、どうでしょう!?」と言いながら頭の中を通りすぎた(正確にはプリティ長嶋)。本当の『ジーニアス』は長嶋さんのように、いわゆるひとつのブロークン・イングリッシュで十分なはず。「HEY! カールっ!!」みたいな。「『鯖』は魚偏にブルーですか?」みたいな。「ナイスですねぇっ!!」みたいな(……あ、一番おしまいのは村西監督だ)。「『ジーニアス(天才)英和辞典』とは出版社もぶちあげたもんだなぁ……」。そして次第に込み上げてくる自意識と羞恥心。「『天才』と名のついた辞書を片手に勉強しているのに、このありさまはなんなんだろう……。これをチマチマめくって同じ単語を何度も調べているような人間は、ジーニアスになんかなれる見込みはないんだろうな。そもそも英語圏の人が見たらどう思う? 『おーい、見ろよー!! こいつら(genius)とか書かれた辞書で(difficult)とか引いてるぜ!!』とか馬鹿にされるに違いない!! 恥ずかしいっ!」

 大風呂敷広げすぎたネーミングは、今の私なら微笑ましく許せるが、その頃は真面目だったので、思いきって辞書を替えた。姉のお下がりのボロボロで手垢だらけの『クラウン英和辞典』。坊主頭のサラリーマンのコセガレが『王冠』への道もほど遠いとは思うのだけど……。

 本屋に行くと「わが子を天才にするためにすべき10のこと」……みたいな新書がゴロゴロ並んでいる。そもそもそんなハウツー本を好んで読むような親の子供が、天才になれるとは思えない。みんな天才に憧れているのだろうか。

 そんなこと考えてたら、さっきアメリカがシリアに爆撃を開始したみたいだ。頼むよ、おい。万事まぁるく収めるジーニアスが現れないものかしら。

週刊朝日 2018年5月4-11日合併号

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