縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ/1915年 鉛筆、グワッシュ/紙 レオポルド美術館蔵/この絵が描かれた年、徴兵されることになったシーレが結婚を決意したのが、エーディトだ。当時、シーレと恋人ワリーとの関係が続いていたためだろうか。睨むようにも、怯えているようにも見える視線が印象的 (c)Leopold Museum, Vienna
縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ/1915年 鉛筆、グワッシュ/紙 レオポルド美術館蔵/この絵が描かれた年、徴兵されることになったシーレが結婚を決意したのが、エーディトだ。当時、シーレと恋人ワリーとの関係が続いていたためだろうか。睨むようにも、怯えているようにも見える視線が印象的 (c)Leopold Museum, Vienna

■文化花開くウィーンで

 天才画家エゴン・シーレの誕生には、当時のウィーンの状況も大きく関わっている。産業革命が始まって約50年、オーストリア=ハンガリー帝国の首都だった当時のウィーンは人口が増大して、ヨーロッパではパリ、ロンドンなどについで5本の指に入る大都市となっていた。

 そのなか、音楽や文学から、建築、心理学まで、さまざまな文化や学問が花開いた。時は19世紀と20世紀の合間。「ウィーン世紀末」としてくくられるようになった。もちろんアートもウィーン世紀末の中心的存在となり、シーレの作品の評価も年々上がっていった。

 世紀末芸術に詳しい美術評論家で成城大学名誉教授の千足伸行さんは、今回の見どころをこう紹介する。

「例えばデッサンです。人体の描き方のルールを、自由にハズして、デフォルメしているものが多い。その結果、見る人にわざと、とげとげしさを感じさせようとした節もあります。いずれにしても彼の人体のデッサンを見ると、単に美しかったり、人の目を癒やしてくれるような、ギリシャ的な美しい人体像は少ないんです」

 こうした、露悪的ともいえる技法も、ウィーン世紀末と言われた時代と無関係ではない。世紀末のウィーンにはさまざまな文化や才能が生まれて、互いにせめぎ合い、葛藤しあった。

「シーレが24歳のときに第1次世界大戦にも突入。シーレの活躍は、もちろん彼の才能による部分も大きかったでしょう。一方で、とくに自画像などには時代への批判的なまなざしがにじみ出ているものも多く、時代が抱えた軋轢(あつれき)や、緊張感のようなものがなければ、シーレのような迫力の画家は生まれなかったかもしれない」(千足さん)

■日本画との共通点多い

 今回のシーレ作品を貸し出したウィーンのレオポルド美術館は、シーレ作品の世界的な収集家として知られるルドルフ・レオポルドさんのコレクションを核とした美術館だ。そのルドルフさんを父に持ち、小さい頃からシーレの作品とともに育ったディータード・レオポルドさんは、私たちがシーレに引きつけられる理由をこう考えている。

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