中京大中京時代と現在の河合完治(撮影/朝日新聞出版写真部、顔写真撮影/佐々木亨)
中京大中京時代と現在の河合完治(撮影/朝日新聞出版写真部、顔写真撮影/佐々木亨)
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興南時代と現在の我如古盛次(撮影/朝日新聞出版写真部、顔写真撮影/佐々木亨)
興南時代と現在の我如古盛次(撮影/朝日新聞出版写真部、顔写真撮影/佐々木亨)
大阪桐蔭時代と現在の福島由登(撮影/朝日新聞出版写真部、顔写真撮影/佐々木亨)
大阪桐蔭時代と現在の福島由登(撮影/朝日新聞出版写真部、顔写真撮影/佐々木亨)

 大会4日目の8月10日は優勝候補の呼び声高い代表校が続々と登場する。このうち、中京大中京、興南、大阪桐蔭で日本一を経験し、社会人野球に進んだ選手たちの当時の思い出と現在の活躍ぶりを、スポーツライター・佐々木亨氏が取材した。

【写真】興南・我如古、大阪桐蔭・福島の現在は?

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■9回2死からの猛攻しのいだ夏 野球の神様に導かれた日本一
中京大中京(愛知)→トヨタ自動車 河合完治(25)

 8年前の夏空を、河合完治は忘れていない。

「真っ青な空でボールが見えなかった」

 2009年夏。選手権大会決勝は中京大中京(愛知)が6点リードで9回表を迎えた。2死走者なし。43年ぶりの史上最多7度目となる名門校の全国制覇は目の前に迫っていた。

 だが、窮地に追い込まれた日本文理(新潟)によるドラマが始まった。四球と二塁打で5点差。さらに右翼線三塁打で点差が縮まる。なおも走者三塁。日本文理の4番・吉田雅俊が三塁ファウルゾーンへ飛球を打ち上げる。真っ青な空と白球が重なり、三塁手の河合が打球を見失ったのは、その直後だ。

「いざ決勝の舞台に立つと、気持ちが浮ついていたと思います。9回表のファウルフライのときは、どこかに優勝がチラついていたのかもしれません。普段では起こりえないプレー。冷静ではなかった」

 河合の落球後も反撃を受けた中京大中京は1点差まで詰め寄られる。それでも、最後は河合のグラブにライナーの打球が収まり、勝敗が決した。

「『終わってくれた』と思った。僕のミスから始まった、あの展開ですからね。でも、最後は打球が飛んできてくれた。野球の神様はいるんだなと思いました」

 もしも準優勝に終わっていたら……河合は「今のように野球はできていなかったかもしれない」と言う。ただ一方で、あの夏から得た財産があるのも事実だ。

「一球、一瞬の大切さと怖さを感じました」

 法政大を経て、今は強豪・トヨタ自動車でプレーする。社会人3年目の昨年は、全5試合でスタメンに名を連ねて都市対抗野球大会で日本一を経験した。

「1安打1打点で、個人としてはダメでしたが、みんなのおかげで日本一を経験できた」

 河合は、今の環境を「高校時代と似ている」と言う。常勝軍団であり続けなければいけない重圧を感じているが「それは大事なこと」だと話すのだ。

「高校時代も現在も全国大会への出場が目標ではない。その舞台で、日本一になることが最大の目標ですから」

 常に上を目指す姿勢は中京大中京時代に「大藤(敏行)監督(当時)から教えてもらったこと」だ。これまで味わってきた「日本一」の経験は、今後の野球人生でも大きなアドバンテージになると信じている。

■“沖縄の風”が導いてくれた 県勢初の夏制覇、春夏連覇の偉業
興南(沖縄)→東京ガス 我如古盛次(25)

 沖縄で暮らし、その島でボールを握る球児にとって「県外の野球は遠い存在だった」と我如古盛次は言う。

「野球の質や環境が沖縄と県外では違うと感じたのが、2年(2009年)夏の甲子園でした」

 1年後の夏。主将となった我如古を中心とした興南が沖縄勢として初めて夏の甲子園を制してしまうのだから高校野球は面白い。しかも春夏連覇だ。決勝では東海大相模(神奈川)を相手に13-1。「遠い存在だった」県外の野球を、圧倒的な力でのみ込む沖縄野球が、そこにはあった。

 王者・興南を形づくったものは何か。選手の掌握術に長け、意識改革を徹底した我喜屋優監督の存在。絶対的エースの島袋洋奨(現ソフトバンク)に、ポテンシャルの高さが際立った攻撃力。強さにつながる材料はいくつもあった。

 それに加えてあの夏を我如古はこう思うのだ。

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