西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。帯津氏が、貝原益軒の『養生訓』を元に自身の“養生訓”を明かす。
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【貝原益軒 養生訓】
養生の術、荘子(そうし)が所謂庖丁(いわゆるほうちょう)が牛をときしが如くなるべし。(中略)心ゆたけくして物とあらそはず、
理に随ひて行なへば、世にさはりなくして
天地ひろし。(巻第二の24)
養生訓には中国の古典、『荘子』からの引用もあります。荘子の内篇、養生主(ようせいしゅ)篇第三にある庖丁と文恵君(ぶんけいくん)との問答を取り上げています。庖丁とは庖(料理)を職業とする丁さんのことで、料理人丁ということです。この話がもとになり庖丁という言葉ができたといいます。文恵君は中国の戦国時代、梁(りょう)の国の恵王。その問答とは次のようなものです。
文恵君が料理人丁の評判を聞いて、目の前で牛を解体させたところ、あまりに見事で、技もここまで極まるものかと、賞賛の声をあげた。それに対して丁は、
「お言葉を返すようですが、私はこれを技ではなく、道と考えています」
と言って訥々(とつとつ)と語り始めた。
「はじめの頃は、目にうつるものは牛ばかりでしたが、そのうちに筋肉や臓器に隙間が見えるようになってきたのです。さらに年月を重ねると、牛を目で見るのではなく、心で見るようになりました。そうなると隙間がどんどん大きくなってきます。大きな隙間に薄い刃を走らせるのですから、容易に解体ができます。そのせいで私の牛刀の刃は19年も使っているのに、砥石でといだようで、刃こぼれがありません」
これを聞いた文恵君は、
「素晴らしいことだ。私は庖丁の話を聞いて養生の道を会得した」
と感嘆した。
益軒はこの問答を引用したうえで、
「人の世でも心をゆたかにし争わずに、理にかなったことをすれば、世間にぶつかることなく、天地が広く感じられる。そういう人の命は長い」
と説いています。庖丁のように道を極めれば世間が広くなり長生きできるということでしょうか。
横山大観(1868~1958)には、この荘子の庖丁の話を題材にした「游刃有余地」という作品があります。東京国立博物館に所蔵されており、公開された折に観に行ったのですが、絵自体は庖丁と文恵君の姿を描いています。日頃、大観は「画面上に宇宙を表現できなかったら、それは芸術ではない」と語っていたといいます。大観も庖丁の見出(みいだ)した隙間に宇宙を見たのだと思います。大観がこの恢恢(かいかい)たる空間を見逃すはずがないからです。
私が人の体の空間に見た生命場もまた、宇宙につながっているのです。
※週刊朝日 2017年7月7日号