戦国大名武田信玄の軍旗に記された「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の有名な語句は、中国の孫子の兵法書からの引用であることは知られている。
しかしそのエッセンスともいえる「風林火山」という語句は当時のどの歴史資料にもない。それが初めて世に出たのは、戦後、しかも井上靖の小説のタイトルからという説があるが、真偽のほどはどうだろうか。
「疾如風、徐如林」の軍旗について書かれた文書も発見されていないほどだから、備前国長船住景光と武田信玄との関係も定かではない。
信玄が、永禄11(1568)年、駿河侵攻に先立ち駿河国の浅間大社(富士山本宮浅間大社)に奉納したのが備前国長船住景光だと言われている。
作刀は、光忠にはじまる備前長船派の3代目を継いだ景光。彼は長光の子、備前長船派の正系の刀工として鎌倉時代末期に活躍した。
備前国長船住景光をはじめ戦勝祈願として数多くの刀剣を奉納した信玄であったが、大切に武田家に伝えられてきた刀がある。それは「銘備州長船清光」だ。この短刀は現在、武田神社宝物殿で厳重に管理され、時折公開されるだけで、一般の人はほとんど目にすることができない秘宝である。
武田家16代当主武田邦信さんはこう話す。
「信玄の父・武田信虎が京でこの清光を作らせ、大井夫人に贈り、信玄の正室・三条の方に譲ったのがはじまりです。その後、武田勝頼の正室・北条夫人に託され、現在の武田家に伝わっています」
勝頼と北条夫人は天目山で自害し、信玄の次男の信親も自害。武田家はそこで途絶えたかに思われた。
しかし信親の子ども・信道が長野に落ち延び、徳川家の庇護を受けながら武田家はつながることになる。その子孫が邦信さんである。
「武田家はいわば滅亡したとされているので、躑躅ケ崎(つつじがさき)にあった文物は散逸するか、他の家にすべて持っていかれ、武田家には伝わらないはずですよね。しかし、そうはならなかった。それは歴史のミステリーですが、こうして今、清光が武田家にあるのは事実です」(邦信さん)