「独眼竜」という風貌と知名度、秀吉を翻弄した知力と胆力、仙台藩62万石の礎を築いた統治能力と先見性、どれひとつとっても戦国武将の中で異彩を放っている伊達政宗。
幼少時に天然痘にかかり右目の視力を失い、そのために母親に疎まれたと言われている。成人した政宗は獅子奮迅の戦いで、出羽国と陸奥国の覇者になった。
天正18(1590)年、秀吉が小田原征伐を開始。秀吉から参戦要請の書状が政宗の元に何通も届いたが、同盟していた北条氏のために応じなかった。
しかし小田原で秀吉の兵力を目の当たりにした政宗は、秀吉側につくことを決断する。
その折の光景をドラマや講談では、「政宗は白装束を着て秀吉に謁見した」とされているが、史実はどうだったのだろうか。関ケ原の戦いで家康の東軍に与(くみ)した結果、仙台藩(伊達藩)は62万石の雄藩へと上りつめていく。その政宗の愛刀は鶴丸国永と鎬(しのぎ)藤四郎。前者は平安時代の刀工・国永の作。2尺5寸9分半(78.6センチ)、反り2.7センチ。細身で、反りの高い優美な立ち姿の、『享保名物帳』に記載される名物。後者の鎬藤四郎は、8寸8分(26.6センチ)の短刀で、慶長3(1598)年、秀吉の死後、遺物として政宗に贈られた。
政宗から数えて18代目の伊達家当主伊達泰宗さんは鎬藤四郎について次のようなエピソードを明かしてくれた。
「鎬藤四郎は2代将軍秀忠饗応の時、幕府世話役である内藤外記が“上様に鎬藤四郎吉光の脇差を進物すべし”と伝えました。これに対し政宗公は“この脇差は太閤様の形見として拝領の物なり、いかに人去り世移り追従を思うとも御恩を翻すことなし、だからこそ公方様へも進物せず”と一喝し、きっぱり断りました」
あと10年早く生まれていれば天下人になれた、といわれる政宗の反骨精神あふれるもの言いだ。
「戦国の世を生き抜いた政宗公にとって刀は戦の道具であり、裏返せば家を存続させるための象徴でもあります。泰平の世を生まんがために命を懸けた先人の魂たる刀を、まるで道具のように軽々しく扱う風潮を政宗公は許せなかったのでしょう」(伊達泰宗さん)