●オレのルーツはアフリカだ!
トランペット奏者、ハンニバル・マーヴィン・ピーターソンに関する話の続きです。
私が生で初めて彼を見たのは1984年、野外フェスティバル「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」の北海道公演です。ハンニバルはギル・エヴァンス・オーケストラの一員として登場しました。このときのことは以前に当コーナーで書きましたので割愛させていただきます。
次に見たのは確か1991年、ジョージ・アダムスのバンドでマウント・フジ・ジャズ祭に出演したときでした。このとき、私はジャズ雑誌編集部の末席を汚すペーペーの青二才でしたが、編集長に「ハンニバルのインタビューをやりましょう」としつこく頼んだ記憶があります。
80年代から90年代にかけての彼は殆ど作品を発表していませんでした。ニューヨークを離れ、全米各地やヨーロッパを転々としていたのです。したがって私が記憶しているハンニバルの肖像は70年代のジャケット写真から止まっています。しかし、インタビュー会場に現れた彼は、髪型こそ変わっていたものの、まさしくあのハンニバルでした。無駄肉のない長身、精悍な表情、マウスピースの跡が刻まれた唇。「ハンニバルという呼び名は気に入っているが、マーヴィン・ピーターソンという西洋風の名前は嫌いだ。オレのルーツはアフリカだ。近々、名前を変えるつもりだ」。
1990年代の半ば、彼はハンニバル・ロクンベと改名しました。
●化け物トランペッター、再び
1992年だったか、再びハンニバルは来日しました。ドラマーの中村達也(ブランキー・ジェット・シティとは無関係)が、ハンニバル、ジョン・ヒックス、リチャード・デイヴィスと組んで来日公演をおこなったのです。
私はお茶の水のどこか(忘れてしまいました)で、彼らのライヴを見ました。2時間以上かけて5,6曲演奏したでしょうか。ハンニバルのプレイが止まらないので、1曲が軽く20分、30分になるのです。このころになると私もトランペットに対する知識はいささか身につけておりましたから、長時間ラッパを吹き続けることの大変さも理解はしているつもりでしたし、あまり吹きすぎると、いわゆる「唇が死んだ状態」となり、吹いているけれど楽器が鳴らないという感じになるということも知っていました(フレディ・ハバードとリー・モーガンの共演した『ナイト・オブ・ザ・クッカーズ』を聴くと、唇が徐々に死んでいく様子が聴きとれます)。
しかしハンニバルは唇が死なないのです。吹けば吹くほど音がでかくなり、フレーズにスピード感が増します。化け物です。これだけ熱気を放出するトランペッターは、私が生で聴いた限りほかにアヴィシャイ・コーエン、アンブローズ・アキンムシーレしかいません。
●ジャズメンは「流し」じゃない
圧倒的だったお茶の水公演のあと、このカルテットがレコーディングを行なうという話を耳にしました。見学できるというので、私は喜びいさんでスタジオに向いました。
が、どうでしょう。モニター・スピーカーからは生気のない音が、ただ漫然と流れるだけです。1曲の演奏時間を5~6分に抑え、しかもメンバー全員がブースに入ってヘッドフォンを装着。しかもレコーディング用に、これまでライヴで演奏したことのない曲もとりあげているのですから、そりゃあパフォーマンスが固くなるわけです。日本のディレクターがジョン・ヒックスに「(プラターズの)オンリー・ユーを弾いてくれないか?」と頼み、うろ覚えでヒックスがメロディをなぞったところ、それがそのまま収録されてしまったり、やはりディレクターが「(エルヴィン・ジョーンズで有名な)アンチ・カリプソをやってくれ」とメンバーに頼んだところ、ハンニバルが「そんな曲は知らない」といい、それにこたえてディレクターがメロディを歌い、それをハンニバルが譜面に書きとめたものの、やっぱり演奏がうまくいかずメタメタになってしまう等の光景を見ることができました。
ジャズメンは「流し」じゃないのです。
ドイツのMPSレコードが制作した『ハンニバル』と、その日本録音をあわせて聴けば、各国の制作陣の「見識」をハンニバルが見事に感じ取って、対応していることがわかります。