信子さまは、九州財界を代表する名家の麻生家に生まれ育った。麻生太郎副総理兼財務相は兄にあたる。1980年、故寛仁さまと熱愛の末に結婚。長女の彬子さま、次女の瑶子さまに恵まれるが、結婚生活は十数年で破綻(はたん)した。
ある宮内庁関係者は、信子さまの不安定な言動が、夫婦仲を裂いた要因のひとつだったと話す。
「信子さまは、お嬢さま方が幼いころから、『自分は他の皇族から嫌がらせを受けている』と家族や友人に漏らし続けていました。母親の言葉を信じた寛仁親王家は他の皇族方から孤立し、ほぼ交流のないまま生活なさってきたのです」
信子さまの言動に不審を抱いた寛仁さまは、夫婦間の溝について周囲に漏らすようになり、アルコールに溺れていった。
一方、2004年春に、更年期障害や胃潰瘍(かいよう)と診断された信子さまは、軽井沢にある姉の別荘で静養生活を送る。06年夏に宮邸に戻るが、気管支ぜんそくを発症して入退院を繰り返した。完全別居が公になったのは09年秋のこと。退院した信子さまは、宮邸に戻らず宮内庁分庁舎として使われていた旧宮内庁長官公邸(東京都千代田区)で暮らし始めた。宮内庁は、「宮邸にお戻りになると、ストレス性ぜんそくが再発する恐れがある」という主治医の見解を公表。寛仁親王家は、寛仁さまと彬子さま、瑶子さまの3人で暮らすようになる。
「この時期、寛仁さまは信子さまとの離婚を望み、弁護士を通じて話し合いを試みました」(宮内庁幹部)
寛仁さまは12年6月に逝去した。遺書には「信子妃殿下は臣籍降下させる」といった内容が書かれていたともいう。葬儀の喪主は、寛仁さまの意向により、彬子さまが務めた。寛仁親王家は、寛仁さまが亡くなって1年経ても当主が決まらず消滅。母娘3方は三笠宮家に合流した。
「寛仁親王家の消滅は、御三方に金銭的なご負担を強いる結果になりました」(別の宮内庁関係者)
皇室経済法の規定で、当主となる皇族には年間3050万円が支給される。だが、親王家の消滅により、信子さまは親王の妃として1525万円、彬子さまと瑶子さまは640.5万円ずつで計2806万円にとどまる。先の宮内庁関係者が続ける。