作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。北原氏は鳥越俊太郎氏のスキャンダル問題から日常に潜む差別を指摘する。
* * *
今、この原稿を書いているのは都知事選数日前だけれど、私は誰に投票するか決められない。そう言うと、「入れたい人じゃなくてマシな人に入れよう!」「鼻つまんで鳥越さんに入れて!」と言う友人も少なくない。鼻つまめるかどうか、何度も考えては、ため息をついている。
正直、週刊誌のスキャンダルは大きかった。スキャンダルが、というよりも、記事に対する反応や対応には考えさせられた。
記事自体は、14年前、鳥越さんが講師として招かれた大学で知り合った女子学生を別荘に誘いキスし、性行為を求めたというもの。週刊誌はこれを「淫行」と書きたてたが、これが事実なら「淫行」ではなく、「セクハラ」と呼ぶべきだろう。
あくまでも“事実ならば”、40歳年下の教え子との思い出は、男性にとっては“ほろ苦い老年の恋”、程度の軽さかもしれないが、学生からみれば、マスコミで働きたいという夢を入り口で潰された経験になったかもしれない。セクハラとは、人生を邪魔されることだ。
鳥越さんはすぐさまこの記事を事実無根と発表し、記事を掲載した週刊文春を刑事告訴した。また翌週に発売された週刊新潮の記事(女子大学生の証言をもとにしたもの)も事実無根とし、刑事告訴をした。
「そもそも、痴漢えん罪事件が絶えないのは、被害者とされる女性の供述のみに基づいて起訴されることにある」
今回の記事も女の言い分だけなので痴漢えん罪と同類、という言い分だ。こうなると、たとえ記事に問題があっても、この抗議文に赤ペン入れたくなる。痴漢えん罪事件が絶えない原因を、女の嘘や勘違いに求める感覚、何周遅れよ。政策に「男女平等」入ってますよね?
また、SNSなどでは、鳥越さんに対する以上に、“被害者”批判が目立ったことにも驚いた。大人の女がキスくらいで騒ぐな、自分の意思でついていったんだろうというセカンドセクハラから、政治に女性問題持ち込むな、というセクハラ軽視など、基本は「大きな闘いの前に、セクハラはたいしたことない」という考えだ。
日本社会って、つくづく女性差別は構造化され、男性の性欲は制度化されている。そういう中で性差別を理解するのは、とんでもなく難しいことなのかもしれない。
差別込みの日常を、私たちは生きている。その差別は日々アップデートされ、放置されている。自分をリベラルだと思っている男性ほど、差別を突きつけられると動揺するのも、よく分かる。私だって、自分の気がつかない差別を指摘されたら、動揺する。でも、分からないって所からはじめてよ、としか言いようがない。「これは差別だよ」と差別される側が説明し続けるのは、とてもしんどい。
※週刊朝日 2016年8月12日号
![](https://aeradot.ismcdn.jp/mwimgs/a/9/800m/img_a9c5d20a10b6ccff0351bd20b310b106695431.jpg)
![](https://aeradot.ismcdn.jp/mwimgs/7/f/846m/img_7f5f1acd9ff6dba73e58abb737ecfe6c1502319.jpg)