「自ら處すること超然。人に處すること藹然。有事斬然。無事澄然。得意澹然。失意泰然」(自分にとらわれず、人にはなごやかに、事があれば活気に満ち、事がなければ澄み、得意の時はあっさりと、失意の時もゆったりと)

 厚生省の後輩で、平成7年から8年7カ月間という官房副長官在任記録をもつ古川貞二郎(現母子愛育会会長)は、天皇代替わりでは首席参事官として官邸側から藤森を支えた。古川は母校九州大学から訪ねてきた学生たちに「尊敬する人物は」と質問されて、「藤森昭一さん。一番尊敬していて兄貴みたいに思っている」「誠実、愚直。こっち行った方が自分にとって都合がいい。そういうことに関係なく自分の道を真っすぐ歩く。そういう人だ」と答えている。

 代替わりの乗り切りが使命だったが、在任は平成8年まで延び、その後も同17年まで参与として皇室や宮内庁幹部の相談役を務めた。

 皇太子妃選考では約40回も皇太子と語らった。水俣病の原因企業チッソとの関係などで一度は消えた候補だった雅子妃。おふたりの結婚の実現に敢然と挑み、最後はハードルを越えた。

 平成3年の雲仙・普賢岳大火砕流、同7年の阪神・淡路大震災では、発災直後に天皇、皇后の異例の現地お見舞いを実現。同年の戦後50年の「慰霊の旅」では、鉄血勤皇隊の生き残りで革新県政を率いていた大田昌秀知事と密かにひざ詰めで話し合い、初めて皇室の側から持ち掛けた天皇沖縄訪問「歓迎」にこぎつけた。いずれもその後の平成の皇室の基礎を据えた仕事だ。

 皇太子の「人格否定」発言に伴う混乱の際は、長官退任から8年も経っていた。だが、責任を感じ水面下で天皇家と皇太子家の修復に努めた。藤森参与にしかできない仕事だった。

 長官退任後、読みたい本450冊をリストアップ。妻と信州の山歩きをするのが夢だったが、妻に先立たれ果たせなかった。

 沖縄、伊勢湾台風、水俣病などの修羅場をくぐり、政権の中枢から宮内庁へと歩んだ藤森の足跡を顧みると、まるで昭和と平成を橋渡しする天命を負った生涯だったように思える。(敬称略)

週刊朝日  2016年7月15日号

暮らしとモノ班 for promotion
「昭和レトロ」に続いて熱視線!「平成レトロ」ってなに?「昭和レトロ」との違いは?