平成7年、国体の開会式に臨む両陛下と後方にひかえる藤森氏 (c)朝日新聞社
平成7年、国体の開会式に臨む両陛下と後方にひかえる藤森氏 (c)朝日新聞社
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天皇陛下におかせられましては、本日、午前6時33分、吹上御所において、崩御あらせられました」──。昭和の終焉を世界に告げた藤森昭一・元宮内庁長官が6月25日、逝った。昭和から平成へ、大喪、即位、皇太子結婚の大事業を指揮した「戦後官僚」だった。享年89。元朝日新聞編集委員・岩井克己はその生涯を「昭和と平成を橋渡しする天命」だったという。

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「なかなかよい人だ」

 昭和天皇は、新任の宮内庁長官、藤森昭一の第一印象を卜部亮吾侍従にこう言った。卜部は日記に書きとめ、下線を引いた。

 戦前戦後の激動の昭和を通じ、数えきれないほど政治家や文武百官と会ってきた天皇が、人物の好悪を口にするのは稀有(けう)のことだ。天皇とはそういうものだった。

 昭和63年6月16日、須崎御用邸の談話室。天皇の体力は前年からの闘病で衰弱し、この日に東京から着いたばかりで疲れていたはずだが、夕食後の藤森の初の拝謁(はいえつ)は40分間に及んだ。

「ところで藤森は国会の銀杏(いちょう)を観察しているというが、銀杏はどうかね?」

 天皇がそう身を乗り出したのがきっかけだった。

 藤森は昭和50年ごろ、国会周辺の銀杏並木の芽吹きや黄葉、落葉の時期に個体差があることに気付いた。約10年間、250本の観察記録を続けた。銀杏は日本列島では氷河期にいったん絶滅して再び渡来したとみられること、万葉集の4500首で詠まれた植物は約150種あるが銀杏は見当たらないことなどを話した。

 上機嫌で耳を傾けた天皇は「今日は面白い話をありがとう」と言った。

 官房副長官時代から天皇代替わりという国家的大事に備え、ひそかに準備を重ねていた。天皇のがん発症、手術という事態に、中曽根康弘首相、後藤田正晴官房長官らに白羽の矢を立てられ、宮内庁に送り込まれた。

 わずか1週間しかなかった昭和元年の12月26日、昭和天皇が即位した翌日に長野県松本市郊外の農家の三男として生まれ「昭一」と名付けられた。

 旧制松本高等学校文科1年で名古屋に学徒動員され、空襲警報下の軍需工場で働いた時は、栄養失調で死んだ学友の棺を担ぎ寮歌を歌って、野辺送りした。

 戦後、厚生官僚の道を選んだきっかけは「新憲法を読んだ時の感激」。特に第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」だったという。

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