激動の時代に生き、商いを成功させた秘話(※イメージ)
激動の時代に生き、商いを成功させた秘話(※イメージ)
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 大人気のNHK朝ドラ「あさが来た」のモデルとなった広岡浅子が注目され、明治以降に活躍した女性実業家たちが改めて見直されている。「尾張屋」質店の5代目当主だった峯島喜代さんもその一人だ。激動の時代に生き、商いを成功させた秘話を、子孫の尾張屋8代目・峯島茂兵衛さん、同9代目・峯島茂之さんが明かした。

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茂兵衛(以下M):当社の母体である尾張屋は、約250年前に江戸で創業した質屋です。喜代は5代目ですが、4代目が71歳で他界したとき、まだ43歳でした。人一倍勝ち気な性格だったので、自分が継がなければ、と奮起したのでしょう。

茂之(以下S):うちの実家には喜代の銅像があり、子どもの頃は「銅像のおばあちゃん」と呼んでいました。この銅像の銘は、渋沢栄一氏が書いたんですよ。喜代が渋沢氏とどんな交流をしていたのかはわかりませんが、渋沢氏を「お前さん」と呼ぶ唯一の人間が喜代だったという話もあります。

M:明治10年、西南戦争で暴落した公債を、喜代は大量購入します。これが大当たりで、急騰した公債を全部売り払い、東京の土地を買い集め始めました。まず神田小川町を6千坪。続いて鳥越町、浜町、蛎殻町、淀橋町……郡部も合わせると、最終的に20万坪以上も所有していました。

S:淀橋町は今の新宿歌舞伎町です。当時の歌舞伎町は大村藩の屋敷跡で、荒れた土地でした。そこを造成し、宅地開発を始めたのが、喜代の大きな仕事の一つでした。

M:歌舞伎町には、喜代の寄付金で東京府立第5高等女学校(現・都立富士高)が建てられたんですよ。喜代は最晩年に私の父を病床に呼び、「今の女子教育はあまりに理屈詰め。東京府に50万円寄付するから、もっと家政に役立つ学校を作ってほしい」と訴えたそうです。

S:空理空論を嫌う人だったので、より実践的な教育の場を求めていたのでしょう。職場でも、「事務所でつべこべ言ってないで、現場に行け!」とゲキを飛ばしていたそうです。

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