西武ライオンズの元エースで監督経験もある東尾修氏は、工藤公康氏の野球人としての生き方をこう褒める。

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 ソフトバンクの工藤公康監督が野球殿堂(プレーヤー部門)入りを決めた。私は18日、東京ドーム内にある野球殿堂博物館で、ゲストスピーチに立った。

 いろいろな思い出が詰まっていた。公康は西武入団1年目の1982年に日本一となり、昨年、ソフトバンク監督就任1年目で日本一になった。そして殿堂入りの有資格者となった1年目に一発当選だ。スピーチでは、私が入団して日本一を経験するまで14年かかったことに触れ、「本当にうらやましい」と話した。

 2年前に秋山幸二(ソフトバンク前監督)が殿堂入りし、今度は公康。ともに西武の黄金時代を支えたチームメートが認められ、仲間が増えたことを本当にうれしく思った。清原和博らが続いてくれたら言うことはないよね。

 公康は発表会見で「東尾さんから野球の言葉を頂くのは何年かに一度。それを楽しみにしていた」と話したそうだ。私は高卒の選手に対し、初めから技術の話をして頭でっかちにしたくなかった。技術は心と体が成熟してこそ身につく。その域に達していないときに技術の話をしても、実力につながらないと考えていた。

 入団1年目か2年目が終わった際、「直球とカーブだけで勝てると思うな」とは言った。だが、どうすべきかは言わなかった。いつだったか、スライダーの投げ方を問われたときも、ボールを握った指先をちょっと見せただけ。本人は「本当に何も言ってくれないな」と冗談交じりに私につっかかってきたこともあったが、数年後にはしっかり自分の武器にしていた。

 なかなか2ケタ勝利に届かず、「なぜ勝てないのか」と聞かれたときには、「体の力がない」とだけ言った。当時の私は30代半ばで、一回り以上若い公康のほうが球速も出ていた。そのときは理解できなかったかもしれないが、すぐに公康は体作りに取り組んだ。簡単な助言であっても、自分なりに受け止め、実践する努力と自分のものにするセンスがあったと思う。

 
 私は「オールスターに出たら一人前」と考えていた。公康が86年に球宴に初出場した後は、食事に出かけて野球談議に花を咲かせることもあった。

 公康は20代後半で結婚すると、栄養学をはじめ、科学的なトレーニングを研究するようになった。自身を実験台にし、数値も記録し、いかに肉体的なロスを減らすかを学んでいた。実働29年は、プロ野球最長タイ記録。公康のように長く野球をやるには、そして野球殿堂に入るだけの成績を残すには、心技体すべてにおいて、自分で学ぶこと、研究すること。どれだけ実績を持った選手でも、その作業に終わりはない。入れ替わりの激しい現在の野球界では、手を抜いたら一瞬で抜かれていく。

 監督となった公康は、私がかつて細かい技術論を振り回さなかったのと同様、選手に多くを詰め込まず、自分たちで考えさせている。あれだけの戦力を持ったチームを指揮しながら「色がないのが監督としての私の色」と言う。しかし、外から見ていても、工藤イズムが着実に選手に浸透している。感心しているよ。

 好奇心と向上心の尽きない男だから、今後も野球界のために尽力してくれるだろう。公康の姿を追いかける選手が一人でも多く出てほしい。

週刊朝日 2016年2月5日号

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東尾修

東尾修

東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝。

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