その「大変」の意味がわかったのは、1995年、NHKの大河ドラマ「八代将軍吉宗」の徳川家重の役を機に、いろんな役をいただくようになってからです。劇団以外の仕事が増え、注目されるようになっても、劇団内は年功序列なので、給料も増えません。一方でメディアに出るときの衣装は自前ですから、経済的にはどんどん苦しくなる。歴史の長い集団特有のいろいろな軋轢(あつれき)もある。父が長年、家でやけ酒をくらっていた理由が、ようやく理解できるようになりました。
結局、私は劇団を辞めることを決め、宣言しました。父は「俺は止める立場だけれど、できない。よくわかるから」。そう言いました。父も何度か辞表を出そうとしたそうです。でも当時は翫右衛門という名優がいて、創立世代の先輩たちからの力強い説得もあり、父は劇団を選んだ。
晩年になって仕事が割と緩やかになると、私が出演しているものはすべてチェックしていました。「ちょっと解釈が違うかな」とか、「俺ならこう思う」とか感想も言ってくれました。カツラの形にうるさいんですよ。江戸前の粋なカツラを結える職人はもういないので、「あれは違う、もっとこうしろ」と。最後までいいとは言わなかったですね。
救急搬送されたのが1月11日。そのときはまだ意識がはっきりしていましたが、やがて話ができなくなり、会話は身振り手振り。25歳になる最愛の孫娘には、それがわかるんですよ。でも、私はダメ。結局、最後まで父との意思疎通はうまくいきませんでしたね。
これからは父の演じていたものを私がやることになります。父はスターで、私は職人的に変化する役者。父のようにはなれません。
父に教えてもらいたいことは、まだたくさんありました。江戸弁も大方は耳に入っていますが、ときどき「あれ?」と疑問が出てくる。そういうとき、電話して尋ねていたんです。これからは、誰に聞けばいいのか……。もっと長く生きてほしかった。(談)
(本誌取材班=牧野めぐみ、上田耕司、亀井洋志、山内リカ、松岡かすみ/今西憲之、岸本貞司)
※週刊朝日 2016年2月5日号