およそ400年前の大阪の陣で滅んだと言われる豊臣家。だが、秀吉の兄の血を引き継ぐ木下家19代当主・木下崇俊は、明治まで豊臣家は続いていたという。
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大坂夏の陣から400年余の歳月が過ぎましたが、大坂夏の陣で豊臣家は滅んだ、と多くの方は思っているでしょう。でも、豊臣の歴史をずっと守ってきた家はあります。秀吉の正室ねね(北政所)の兄・木下家定の系統が2家、江戸時代を通じて藩主として生き延び、現在まで続いています。
一つは、家定の次男・利房の家系で、現在の岡山県にあった足守藩の藩主でした。もう一つが家定の三男・延俊の家系です。大分県の日出(ひじ)藩を治めていて、私が19代目となります。
もともとの姓は杉原でした。杉原家定は、妹のねねが、まだ木下藤吉郎と名乗っていたときの秀吉に嫁いだことで、杉原の姓を捨てて木下姓となりました。のちに秀吉が豊臣の姓を朝廷から賜り、家定も豊臣姓を名乗ることを許されています。私の家には「豊臣」の印章が代々伝わっていますが、これは足守藩の木下家にもない貴重なものです。
関ケ原の合戦のとき、家定は妹のねねを警護していました。うちの初代である延俊は、父親の家定が城主だった姫路城を守っていました。家定の長男・勝俊は伏見城を守っていましたが、西軍が押し寄せてきたときに敵前逃亡をしています。木下の一族で実際に合戦に出たのは、五男くらいでしょうか。五男は秀吉の養子に入り、のちに小早川隆景の養子となった小早川秀秋です。東軍に寝返って、西軍が敗北する原因となりました。