会議中、本社を糾弾する怒りの声まで聞こえてきましたよ。わかったのは、あれだけの切符を手で売るのは無理だということです。そこで「立席承知」で、席がないと知った上で買う切符を出しました。可能な限り、切符の作り置きもし、何とか営業できるまでにしたのです。それでも、現場から、年末はとても持たないだろうとの声が上がりました。

 それで、他に方法がなく、12月に「こだま」12両のうち6両だけ自由席にしたのが、新幹線の自由席の始まりだったんです。切符は素早く売れる。熱海など近距離で降りたお客様の後にすぐ別のお客様が座れて、座席にムダがありません。やってみるとお客様の評判も良かったのです。翌年からは「こだま」に自由席が定着しました。混乱がなければ、新幹線の自由席は当分の間、作られなかったでしょう。

ひかり」にも自由席を作ったのは47(72)年、山陽新幹線が岡山駅まで開業した時です。私は旅客局営業課長としてこの開業を担当する一員でした。

 新大阪から岡山までは、一部の「ひかり」は全駅に止まりました。どの「ひかり」も東京~岡山間の直通運転。新大阪から岡山のみに止まる「Wひかり」、新神戸や姫路にも止まる「Aひかり」、全駅に止まる「Bひかり」が走ったのです。その区間に昼間は「こだま」はなかった。すると、岡山~静岡と乗る際などは「ひかり」と「こだま」を乗り換える必要が出てきます。

 当時、東京、名古屋、京都、新大阪のみに止まる「ひかり」と、各駅停車の「こだま」とでは、速さの印象にかなり差がありました。実際に、東京~新大阪間の所要時間で言えば、当初、「ひかり」は4時間、「こだま」は5時間だったので両者に料金差があったのです。

 山陽新幹線に「ひかり」しかなかったのは、そうした背景もあり、どの駅からもかなり強い「『ひかり』を止めてくれ」との要望があったからです。はっきり言うと政治家を絡めた陳情もありました。しかも、新大阪止まりではなく東京までの直通を望む、と。まだ東京中心の志向が強い時代でした。

 その課題を解決するには、東京直通の3種の「ひかり」を通すしかなかった。ただ、どの駅も求めたのは「他の駅は通過する『ひかり』」でした。

「確かに『ひかり』は来たが、ウナギを頼んだら各停のドジョウが出てきた気分だ」

 と言われたこともあります(笑)。

「ひかり」を通す課題は解決しても、「こだま」停車駅と山陽新幹線を利用するお客様のために、「ひかり」にも自由席がなければ乗り換えが円滑に進みません。それで乗り換え自由にし「ひかり」にも自由席を設けようとしたのですが、実現するまでにはすごく時間がかかりました。

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