この凄惨(せいさん)な状況をつくった空襲を、富山平野が一望できる高台の畑から見ていたのが、婦負(ねい)郡保内村(現在の富山市八尾町)に住んでいた布村建(ぬのむらたつる)さん(78)だ。
「無風の暑い夜でした。オレンジ色の天を焦がす火炎と煙。原爆のきのこ雲上部に赤、黄、オレンジの色を付けた感じです。落下傘つきの照明弾がひときわ明るく、黄色に輝いていました」(布村さん)
双眼鏡で見ると、焼夷弾が火の粉のように降り注いでいたという。
「遠くだったので、倒壊する家屋の音や逃げ惑う人々の叫びは聞こえません。巨大なスクリーンに映る無声の静止画像を見ているようでした」(同)
布村さんが、この空襲で3千人近くが亡くなったことを知ったのは、成人してからだったという。
「小学生だった私にとって、戦争とはおなかがすくことであり、進軍ラッパと突撃のイメージでしかありませんでした。戦争の惨禍についての情報は一切ありません。ほかの戦場や空襲の現実の死に思いをはせるだけの知識を持ち合わせていませんでした」(同)
多くの人から大切なものを奪った空襲。体験者には、ときとして当時の記憶がよみがえる。
鹿児島市で空襲に遭った木村和義さん(79)は、エンドウ豆のご飯を見ると、つらい記憶が頭をよぎる。
空襲前夜、母親が「明日の朝みんなで一緒に食べよう」と言って、お釜をかまどにかけていた。それが空襲による火災で炊けていたのだ。
空襲後、お釜の中をのぞくと、黄褐色のご飯があった。多少すす臭かったが、がれきの上で朝の食事として家族で食べた。
「その年、はじめて庭先で収穫したエンドウ豆を入れたものでした。私は家族全員助かったけれど、火に囲まれて怖い思いもしたし、隣人は亡くなりました。豆ご飯は今でも食べたくありません」(木村さん)
※週刊朝日 2015年6月26日号より抜粋