かつて昭和天皇には影の藩屏(はんぺい)が存在した。国際情勢のインテリジェンスを届けた右翼の黒幕――。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が取材した。
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今から33年前の1982年4月9日、午後5時を過ぎた頃、都内港区の都ホテル(現在のシェラトン都ホテル東京)に一台の車が到着した。周囲は白金の住宅街で静寂な雰囲気が漂う。後部座席から降りたのは一人の老紳士だった。
年齢は70代後半、落ち着いた身のこなしが育ちの良さを感じさせた。
エレベーターに消えた彼は、ある部屋の前でドアを叩いた。出迎えたのは同年輩の男性だった。古武士然とした容貌で目つきが鋭い。横には秘書兼ボディガードの若い男が控えた。
老紳士の名は入江相政(すけまさ)、昭和天皇の侍従長を務める宮内庁幹部だ。迎えた男は田中清玄(きよはる)、国内外の豊富な人脈で知られる右翼の黒幕である。二人は挨拶を交わすとテーブルを挟んで座った。秘書がホテルに電話を入れ、頼んでおいた料理とワインを運ばせた。
それから約3時間、食事を取りつつ田中は入江に最近の国際情勢を説明した。中国やソ連、欧州の政治動向、各国指導者の近況など内容は多岐にわたった。
側近を通じて天皇に情報を提供し、時には政府を介さないコミュニケーション・ルートを果たす。いわば昭和天皇のインテリジェンスというべき存在、その立役者の一人が田中清玄だった。
世間では「右翼の黒幕」と呼ばれた田中だが、その足跡は波乱に富んでいる。
1906年、会津武士の子孫として北海道で生まれた田中は東京大学在学中、日本共産党に入党した。当時の共産主義運動は非合法で、書記長の田中は武装路線を取り官憲殺傷を引き起こす。その結果、治安維持法違反で逮捕され11年近くを獄中で過ごした。ところが戦後は右翼に転向して熱烈な天皇主義者になった。
また土建業や海外の石油開発など様々な事業を手掛け、中国の鄧小平やアラブ首長国連邦のシェイク・ザイド大統領、インドネシアのスハルト大統領、山口組3代目の田岡一雄組長など絢爛たる人脈を築いた。1993年に亡くなるまで国際的フィクサーだった人物だ。
その田中は独自に入手した海外情報を天皇に提供していた。入江侍従長の死後発表された日記がそれを裏付ける。
例えば冒頭の1982年4月9日は「五時に出て都ホテル。食事を共にしつゝ田中清玄さんと話。中ソは絶対に手を結ばないこと。西独、ソ連寄りになる懼れありとのこと」(『入江相政日記』第6巻)。同年9月27日、翌年10月11日にも同様の記述がある。
田中の元側近や関係者によると、入江との会合は都ホテルの個室で、まず事前に用意したレポートを渡す。食事をしながら背景を説明し、それらはテロ情報も含まれた。紀尾井町の入江の自宅に夜、秘書がレポートを届けたこともあったという。生前は「国士」「政商」など毀誉褒貶(きよほうへん)が激しかった田中だが、国際情勢に関して独特のカンと洞察を持っていたのは間違いない。一例を挙げる。
英国立公文書館が保管する記録によると、1973年9月14日、ロンドン滞在中の田中は英政府首脳に書簡を送った。近く中東で武力紛争が発生し石油供給に深刻な影響が予想される。至急、必要な対応を取って欲しいという。アラブ諸国によるイスラエル奇襲で第4次中東戦争が勃発、世界を石油危機が襲ったのは翌月だった。
その田中の情報源の一つに、欧州きっての名門ハプスブルク家の当主オットー・フォン・ハプスブルクがいた。旧オーストリア・ハンガリー帝国の最後の皇帝の長男オットーは、第2次大戦中、ナチスへの抵抗運動を行う。戦後は反共活動に尽力して田中と知り合い、晩年まで親交を結んだ。かつて欧州を支配したハプスブルク家は東西両陣営を超えたシンパを抱えた。彼らからは折に触れ確度の高い情報が集まる。それはオットーから田中に回り、日本語に訳され入江に渡ったのだった。
しかし一右翼の田中がなぜ、天皇側近と関係を築けたのか。答えは昨年公表された「昭和天皇実録」で確認できる。今から70年前の敗戦直後、田中は天皇に単独で拝謁していたのだ。
きっかけは週刊朝日(1945年12月2日発行号)に載った田中のインタビューだった。当時は国内を共産主義が覆い、革命前夜の空気があった。
その中で田中は天皇制擁護を訴え、実力行使も辞さない覚悟を述べた。それを読んだ側近が働きかけ、1945年12月21日、拝謁が実現したのだった。
「午後、吹上御苑内を御散策の際、生物学御研究所にお立ち寄りになり、同所において田中清玄に謁を賜う。田中は、自身の経歴を紹介後、天皇家存続の歴史自体が日本民族の統一・融和の証左であるとして感謝を表明するとともに、第一に天皇の御退位や摂政の設置に反対し、第二に皇室財産を以て飢餓に瀕する国民を救済し、第三に復興へ向けて立ち上がる国民の姿を御覧の上、御激励されたき旨を願い出る。これに対し、田中家の出自の会津藩、及び田中により起業の土建業等につき御下問になる」(「昭和天皇実録」)
この拝謁は侍従だった入江も同席し、後に田中はこう振り返っている。
「お話し申し上げていて、陛下の水晶のように透き通ったお人柄と、ご聡明さに本当にうたれて、思わず『私は命に懸けて陛下並びに日本の天皇制をお守り申し上げます』とお約束しました」(『田中清玄自伝』)
当時はまだ皇宮警察の体制も整わず、皇居に左翼陣営がデモをかけることもあった。それを聞いた田中は自分の土建会社の荒くれ男を多数送り、デモ隊を殴り倒させた。また1987年9月、昭和天皇が初めて開腹手術を受けた際、田中は皇太子(今上天皇)に見舞いの書簡と欧米やソ連の政治情勢レポートを届けている。天皇に海外のインテリジェンスを提供し、敵対者には実力行使も躊躇わない、いわば皇室の影の藩屏と言えた。
※週刊朝日 2015年4月10日号より抜粋