多くの人々が悲しんだ俳優・菅原文太さん(享年81)の死。菅原文太さんががんと診断されてから親交を深めたという、医師の鎌田實さんが思い出を語る。
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文太さんは11月中旬に急に体調が悪化し、病院に連れていったところ、そのまま入院。奥さんはそのとき「来る時が来た」と覚悟したようです。亡くなった後、そう奥さんからメールをいただきました。
7年前、文太さんが僕の『がんばらない』を読んで、ラジオのゲストに呼んでくれました。そのときに相談があると言われ、1週間後にお食事をしたのですが、「実は膀胱がんで」と打ち明けられました。
「膀胱を全部取っちゃうのが一番いいとわかっているけれども、菅原文太は立ちションができなけりゃだめだ。おしっこの袋をぶら下げていちゃ、だめなんだ」
僕が、命の長さより、命の質みたいなものにこだわっている医者だと知って、相談されたのでしょう。
今年の8月、一緒に蓼科でカレーを食べたんです。そのとき初めて、文太さんが戦争の話をしました。
文太さんの父親は40歳で出征して、帰ってこられたけれども、生きる力が弱まり、絵の先生をして人生を終えたそうです。父親の弟は出征後、どこで亡くなったかもわからず、骨も見つかっていないと。
「戦争って人生を変える。自分たち家族も戦争によって、ずいぶん変えられたと思う。二度と戦争をしちゃいけないのに、戦争が起きても不思議じゃないような状況が、すごく心配だ」
そう言っていました。
震災後は原発はもちろん、岩手、宮城、福島の海岸に巨大な防潮堤が造られることについて、海の子どもが海を好きにならなくなるんじゃないかと心配していました。防潮堤よりも、海を好きでい続けられるほうが大事じゃないかと。
ここ2、3年、ものすごく真面目になってたから、僕は「まっとうですね」って茶々を入れたことがある。そうしたら、「俺はまっとうに生きてこなかったから、せめて最後くらいはまっとうでいたい」と。
顔色をうかがうような社会になりだしていることに危惧を抱いて、俺ぐらいは言うことを言わないといけないと思っていたと思います。子どもや若者たちにとって、本当に住みやすい国であり続けるためにも。
がんの転移や余命は、だいぶ前から覚悟をしていたのではないでしょうか。最後まで食べっぷりもよく、つらそうなそぶりは見せませんでした。自分で選択して、自分で納得していたからだと思います。生き方そのものが、本当にかっこよかった。
※週刊朝日 2014年12月19日号