「死」とは多くの人が恐れるものだろう。しかし、これまで解剖学者として30年近く死体を扱ってきた養老孟司氏は、「死についての洞察」が普通の人とは違うと、『達者でポックリ。』『死を生きる。』などの著書がある帯津良一氏との対談で明かした。
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養老さん(以下、養):普通の人は死体に現実感がないですよね。見たら逃げちゃって、持ち歩かないでしょう。僕はいつも持って歩いていましたし、素手で触ってみる。感覚的です。死体にすごく強い現実感がありますよ。それが非常に違う点じゃないでしょうか。で、相当早くから「しょうがねえな、俺も死ぬな」という実感があった。
政治学者の丸山真男さんが戦後の日本を評して、日本人は理論信仰と実感信仰に分かれると言いましたが、その後の推移を見ていると、テレビの時代になって、その実感も薄れてきている。テレビって明らかに映していないものがある。その典型が死体ですよ。
警視庁が本日の交通事故、死者1名って発表する。そのときには抽象的な数字に変わってしまっている。そんな数字、誰も気にしていないから、事故を抑制したいなら、せめて現場の写真を見せるべきです。それでもだめなら現物を置いておけばいい。
帯津さん(以下、帯):それだけ死に実感をお持ちで、でも死についてあれこれ思い悩まないと、著書(『死の壁』)に書いていらっしゃいますね。
養:今日だってそうです。来る途中電車で寝ちゃうじゃないですか。寝る代わりに死んだとするでしょう。そうすると俺はどうかなと思うと、自分は全然困らない。困る自分はいないから。困るのは対談ができなくなった編集者ですよ。
帯:一人称の死と二人称の死って、おっしゃってますね。
養:一人称の死はないんですよ。みんなあると思っているけれども、その死は出現した瞬間、それを問題とする自分はいないんだから。自分にとって、そんなものは存在していないんです。意識の中で勝手に想像しているだけで。
帯:自分の死は他人にしか見ることができないんですから、論理的にはそうですよね。
養:赤の他人だって、今この瞬間だって世界中で大勢死んでいるんですよ。何の関係もないでしょう。そしたら、知っている人の死だけが死です。
帯:つまり、ないものに対して恐れをもってもしょうがないということですか。
養:考えてもしょうがない。毎日寝ているんだからわかるでしょう。そのあいだ何をしているのかが。
帯:寝ているときは何もないわけですよね。夢を見ていないときは。
養:それと同じですよね。
帯:それはわかるんですけれど、それとは別に、寝たあとは、また起きて、意識が戻るわけですよね。だから死んだときにもそういうことがあってもいいかなと思いますね。いわゆる死後の世界です。
養:あってもいいんですけれど、つまり意識とは「同じにする」という機能を内在しているんですね。だから、意識が戻るたびに同じ私ができちゃう。だから連続していると思っているんですけれど、最近の医学では7年たつと分子が全部入れ替わってしまっているらしい。僕は76歳だから、もうすぐ11回目。もう完全に生まれ変わっているはずなんだけど、意識が中心だとつながっている。
※週刊朝日 2014年5月30日号より抜粋