村上春樹さんの本の表紙などで知られるイラストレーターの安西水丸さん。数々の雑誌の表紙も描いたほか、その仕事は、作家、翻訳家と幅広かった。ひょうひょうとした絵に秘められた熱い思い。若手の育成にも力を注いだ人生だった。
* * *
その名前や顔は知らなくても、作品は誰もが目にしていたはずだ。そんな国民的なイラストレーターで作家の安西水丸さんが、3月19日、脳出血のため亡くなった。71歳だった。神奈川県鎌倉市内のアトリエで17日、仕事中に倒れ、病院に運ばれたが回復しなかった。
作家の村上春樹さんとのコンビで数々の作品を世に送り出したことは有名だが、小さい子どものいる家庭では、『がたん ごとん がたん ごとん』(福音館書店)などの絵本でおなじみかもしれない。NHK「ラジオ英会話」のテキストや、料理の専門誌、地方のタウン誌などの表紙も数多く描いていた。
訃報が発表された翌25日の朝日新聞には、「彼が描く絵や文字の線は気品があって好きだった。『水』という字なんか、ほんとに澄んでいて性格どおり。粋でダンディーな男だったね」(写真家・荒木経惟さん)など、数多くの仕事仲間がコメントを寄せた。
1942年、東京都生まれ。65年に日大芸術学部卒業後は、電通や、ニューヨークのデザインスタジオADAC、平凡社でアートディレクターを務めた。79年には、イラストレーターの原田治さん、故ペーター佐藤さんや、当時、平凡出版(現マガジンハウス)のアートディレクターだった新谷雅弘さんと「パレットクラブ」というユニットを結成し、若手の絵本作家やイラストレーターの養成にも力を注いだ。まさに、広告・雑誌の黄金時代を支えてきたクリエーターだった。
いつもにこやかでひょうひょうとしていた。作品を生み出す苦悩を人に見せたことがなく、近しい人にさえ弱音を吐くことは一度もなかった。
妻のますみさんは言う。
「絵も文章も、いつもさらさらっと書いていた。たぶん“見せない”のではなくて、本当に苦労したことがないんです」
そんな人柄は、安西さんの描く絵が物語る。元祖「ヘタウマ系」ともいわれる安西さんの脱力系の絵は、老若男女を問わず親しまれた。
安西さんとの共著もある写真家の小平尚典さんは振り返る。
「安西さんは、アメリカのフォークアートが大好きだった。絵の勉強をしていない無名の人が描いた絵こそ、本当のアートだと」
フォークアート作家たちを訪ねたアメリカ南部の旅行記『アトランタの案山子、アラバマのワニ』(小学館)の中で安西さんは、
「今までで一番つまらない絵を描いていたのは、高校になってデッサンを学び始めてから、美大で勉強していたころ(略)。(フォークアートは)イノセントな感性が最も大切であることを教えてくれた」
と書いている。
事務所も兼ねていた都内のアトリエには、アメリカのフォークアート作品や、ウルトラマンのフィギュア、そして、大好きだったスノードームが所狭しと並べられている。それらの置物は、何となく置いてもそれなりの雰囲気があった。
「やはりその物たちを本当に好きで、その本質がわかっていたのかもしれない」(妻のますみさん)
事務所の打ち合わせ室には、レイモン・サヴィニャックのポスターが飾られ、戸棚にはこれまたコレクションしていたブルー・ウィローの陶磁器がきれいにレイアウトされている。打ち合わせが終わると、そのまま編集者や仕事仲間と飲み明かす日もあったという。
「好きなスノードームやいろいろな物に囲まれ、好きなお酒を飲んで、好きな絵を描いて、仕事中に倒れて逝ってしまった。まあ、よい人生だったと思いたいです」(同)
安西さんは、実は週刊朝日とも縁が深かった。
村上春樹さんが、身辺雑記を赤裸々に綴った連載エッセー「村上朝日堂」(85年4月5日号~86年4月4日号、95年11月10日号~96年12月27日号)が週刊朝日に掲載され、その挿絵を描いていたのが安西さんだった。
「村上さんとは本当に気があったようで、よく『春樹君は人見知りのところもあるけれど、話すとすごくおかしいことを言ったり、取材で出かけても、列車の中で春樹君は本を読んでいて僕は車窓の風景を眺めていて、特に話をしなくてもまったく気にならない』と二人のことを話していました」(同)
村上さんが特別に書き下ろした一回限定の「村上朝日堂 特別編」が、今週発売の「週刊朝日4月18日号」で復活している。挿絵は連載当時のものから厳選して再掲載。“名コンビ”と称された二人の最後の共作となる。
(本誌・岡本なるみ、竹内良介)
※週刊朝日 2014年4月18日号