その行使の容認をめぐって是非が問われている集団的自衛権。しかし、ジャーナリストの田原総一朗氏は「ゼロか百か」で論じるのは間違っていると指摘する。
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「いかなる憲法解釈も国民の生存や国家の存立を犠牲にするような帰結となってはならない」
安倍晋三首相は、9月17日に開かれた安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)で、こう強調した。つまりは、政府の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認するという意欲を示したのであろう。18日付の毎日新聞は、次のように報じている。
「これに先立つ12日。首相は防衛省で開かれた自衛隊高級幹部会同で、『現実とかけ離れた建前論に終始し、そのしわよせを現場の自衛隊員に押し付けてはならない』と訓示した。現実に即して憲法解釈を変更する――。発言からはそんな首相の考えがにじむ」
この安倍首相の訓示に対して、マスメディアの評判はかんばしくない。例えば、「現実とかけ離れた建前論」とは何を指し、「そのしわよせを現場の自衛隊員に押し付けている」とは、どういうことなのか、抽象的すぎてよくわからないというのである。
実は、私が司会を務める14日のBS朝日「激論!クロスファイア」に、民主党政権で防衛相を務めた森本敏、元海上幕僚長の古庄幸一、元陸上幕僚長の火箱芳文の3氏が出演した。そして彼らは、自衛隊がいかに法律でがんじがらめに縛られて、身動きのとれない状態であるかを力説した。現実的に活動しようとすると、超法規的な行動を覚悟しなければならず、少なからぬ現場の指揮官たちはその覚悟をしているのだという。自衛隊は数多くの矛盾を抱えているということだ。
こうした告白を聞かされたためもあって、私は安倍首相の発言が抵抗なく理解できた。
ところで、問題の集団的自衛権である。マスメディアでは、集団的自衛権については反対論が多い。だが、私は集団的自衛権をゼロか百かで論じるのはあまり意味がないと思う。
60年安保以来、これまで日米の関係は、日本が盾の役割をし、アメリカが矛の役割をすることになっていた。安全保障の上で、日本が危機のときはアメリカが日本を助けるが、日本がアメリカを助けることはないということだ。
しかし、時代は60年安保から大きく変わった。PKO法もできて、自衛隊は特措法でイラクに派遣された。すでに事実上の解釈改憲がなされているのである。
私は安全保障の面で、現実的にある程度は同盟国であるアメリカへの協力が必要だととらえている。
問題は、どのような場面に、どのような協力をするかということだ。第1次安倍内閣では、集団的自衛権が適用される状況の実例として、4類型を作成した。公海上で自衛艦の近くにいる米艦船が攻撃を受けた場合の応戦や、アメリカに向かう弾道ミサイルの迎撃などである。だが、途中で安倍首相は辞任することになってしまった。
この4類型をもっと絞ることになるのか、広げることになるのか。いずれにせよ安倍首相は、現在の時点では憲法改正をして集団的自衛権を行使するのではなく、解釈を変えることで行おうとしているようだ。
少なからぬマスメディアが、集団的自衛権の行使が憲法の趣旨から逸脱しないかと危惧するのはよくわかる。だが、ゼロか百かではなく、現実的な議論をどんどんやるべきだ、と私はとらえている。
※週刊朝日 2013年10月4日号