心理学者の小倉千加子氏は中学時代を振り返り、秀才と言われた人には共通点を見つけたという。

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 中学生の頃、クラブ活動のソフトボールの試合のために顧問の先生に連れられて他の中学に出かけるのがとても楽しみだった。夏だと、試合の後で「かき氷」などを御馳走してもらえる。

 私たちは弱いチームだったので負けても自分たちの実力はこんなものだと、いつも悔しいとも思わなかったし、先生も部員を叱ったりもされなかった。が、先生はこれではいけないと思われたのだろう。ソフトボールに詳しいハンドボール部の顧問の先生に指導を頼み、ハンドボール部の先生はもっと詳しい人がいるからと他の市の中学の先生に来てもらい、私たちは2人のコーチに指導を受けたが、急に強くなることはできなかった。

 それに同じ地区には箕面一中と止々呂美中という強豪校があり、この二つのチームにはまぐれで勝つことは到底不可能だった。特に止々呂美中のチームは厳しい監督の下で猛烈な練習をこなし、俊敏さと粘り強い精神力を身につけていた。私たちは自分たちなりに練習に精を出していくしか方法がなかったのである。

 ある日、顧問の先生がその日の「現代国語」の参観の授業のことをグラウンドに来て興奮して話された。

 この子に当てようと決めていた生徒の名前をその日に限って言い間違って、お母さんがいる前でとても失礼なことをしたと大いに反省されたのである。が、その生徒はその日練習を休んでいて、グラウンドにはいなかった。確かそれと同じ日だったと思う。先生はノックを終えた後、部長である私にこう告げられたのだ。

 去年の3年生に「開学以来の秀才」と言われる女子生徒がいた。「二度とこんな生徒は現れないというほどの秀才だ」。

 その先輩の名前は校内に知れわたっていた。「それが違ったんだよ。開学以来の秀才がまた現れたんだ」。

 先生は今ノックで走り回っていた1年生の部員の名前を挙げられた。「そうなんですか」。

「全科目で完璧なんだ。集中力だね」。数字の上で彼女を超える人は現れようがない。「開学以来の秀才はどちらも女子なんだね、うちの学校では」。

 私と先生と2人で遠くからその後輩を見つめていた。そして、去年までの「開学以来の秀才」と今年からの「開学以来の秀才」には性格によく似たところがあるなと思った。

 2人とも人からそう言われなければ秀才だと分からないほどおとなしいのである。控えめで寡黙である。先輩は試合の日に部員が足らなくなった時、助っ人を頼んだら試合に出てくれたし、後輩はいつも黙々と練習をしている。2人とも性格が温順で、何か強く自己主張したところを見たことがない。

 人が自己を表現したり主張したりするのは、何かが欠落しているからではないだろうか。

 完璧な人は自己を表現したいとか主張したいという欲求を持つ必要がない。集中しさえすれば自分の内部に充足できる世界が広がっているのだから。あるいは秀才は自分が女性であることに気づいて、女性であることの中にわざと身を隠しているのだろうか。

 その後、先輩は結婚して専業主婦に望んでなったと聞いている。そして後輩は京大医学部を卒業して勤務医として働いている。先生は何度も言われた。「本当に優秀なのは女子だね。並外れた集中力があって目立とうとしない女子だね」。

週刊朝日  2013年8月16・23日号