醍醐寺のしだれ桜
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国宝の三宝院唐門
国宝の三宝院唐門

紅葉の季節の夜の弁天堂
紅葉の季節の夜の弁天堂

 3月といえば日本国民の多くが楽しみにしているお花見のシーズン。だが、新型コロナウイルスの流行により東京・上野公園などでは宴会中止の案内が出ているほどで、今年は花見も散策で楽しむ程度の自粛となるのだろう。

【写真】醍醐寺は秋の紅葉の季節も美しい!

●現在の花見の原型は

 日本人が好むこの花見文化の始まりは、豊臣秀吉が開催した「醍醐の花見」にあるとも言われている。貴族たちの間にあった花見文化とは違い、桜の花の下でドンチャン騒ぎをするという風習が市井に広まっていったのである。

「醍醐の花見」とは、秀吉が没する約半年前の慶長3年3月15日(1598年4月20日)に、京都の古刹・醍醐寺で行った花見で、1300人ほどの女性たちを招いた壮大なものだったようだ。

●女性だけ招待した絢爛花見

 警備や設営には諸大名があたったが花見自体に招かれはせず、男性の参加者は豊臣秀吉・秀頼のほかには前田利家だけだったらしい。

 花見のために、醍醐寺の三宝院を復興させ、庭園を改修、山腹までにおよぶ場所に700本ほどの桜を植樹した。境内には8つの茶屋を設け、招かれた女性たちは2回の衣装替えが命じられたとか。つまり、1人3着の着物が新調されたわけだが、この衣装代だけで現在の40億円弱の金額に上るという。

●古刹を現在に残した秀吉の財力

 1467年に始まった応仁の乱以後、国内は戦争で荒れ果て疲弊し、平安初期に創建され後醍醐天皇の祈願寺でもあったことから、大伽藍を持つ大寺となっていた醍醐寺も戦火によって荒廃、すでに五重の塔を残すのみとなっていた。これを秀吉は、花見のために見事復興させたのである。桜の木の植樹だけでなく、金堂などを紀州・満願寺から移築するなどしていて、秀吉自身が醍醐寺に赴き、進捗を指揮していた。秀吉人生最後のビッグイベントはこうして行われた。

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