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 かつて一度だけ、憲法改正をめぐる国民的議論が交わされた時代があった――。

 1949年から前回の東京オリンピックが開催された1964年の間に行われた、当時の改憲論議の詳細を描いた『憲法と日本人 1949年-64年 改憲をめぐる「15年」の攻防』(NHKスペシャル取材班著、朝日新聞出版)。この時代に、日本国憲法の改正をめぐって、どうような議論が交わされ、争点となったのか。NHK取材班が発掘した、さまざまな新資料から浮かび上がった史実の一部を紹介する。

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 改正か否か。憲法の改正をめぐり、緊張感の高まる状況が過去に存在した。

 当時の憲法改正論議が本格的に動き出した1949(昭和24)年。端緒となったのは、連合国軍総司令部(GHQ)が刊行した憲法制定についての公式報告書だった。GHQが主導した憲法制定過程が初めて白日の下にさらされ、「押しつけ憲法」との批判が一気に高まった。

 1950年代に入ると、朝鮮戦争など東西冷戦の激化から、日本国憲法制定を主導したアメリカが態度を一変させ、再軍備を迫っていく。アメリカにとって憲法9条が大きな足かせとなったのだ。

 それは当時、日本の安全保障や防衛体制などの問題について話し合う協議で、池田勇人とともに交渉に同席した、元首相・宮沢喜一の残した未公開資料からも明らかとなる。

 日本国内の保安のための武装組織であり、自衛隊の前身「保安隊」には、1953(昭和28)年当時、約11万人の隊員がいた。日本の再軍備を望んでいたアメリカは、約3倍にあたる32万5千人まで人員の引き上げを要求。防衛力の強化を求めた。宮沢が残した資料には、アメリカ側からの疑問や意見として次のようなことも記されていた。

「適正な防衛のためには憲法改正が必要か? 必要である場合、そのような改正に必要なのはどの程度の時間か?」

「日本の国民が適正な防衛が必要だということに対して目覚めるためにはどのような教育を行っていく必要があるのか?」

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改憲を志向する経済界