小林照子(こばやし・てるこ)/美容研究家。ヘア&メイクアップアーティスト。1935年、東京都生まれ。東京高等美容学院を卒業後、小林コーセー(現・コーセー)に美容部員として入社。数々の大ヒット商品を手掛け、85年、同社初の女性取締役に就任。その後独立・起業し、美容ビジネスの企業経営や後進を育てる学校運営をおこなっている。『人生は、「手」で変わる。』(朝日新聞出版)、『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『小林照子流 ハッピーシニアメイク』(河出書房新社)ほか著書多数。(撮影/写真部・片山菜緒子)
小林照子(こばやし・てるこ)/美容研究家。ヘア&メイクアップアーティスト。1935年、東京都生まれ。東京高等美容学院を卒業後、小林コーセー(現・コーセー)に美容部員として入社。数々の大ヒット商品を手掛け、85年、同社初の女性取締役に就任。その後独立・起業し、美容ビジネスの企業経営や後進を育てる学校運営をおこなっている。『人生は、「手」で変わる。』(朝日新聞出版)、『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『小林照子流 ハッピーシニアメイク』(河出書房新社)ほか著書多数。
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※写真はイメージです(Gettyimages)
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 人生はみずからの手で切りひらける。そして、つらいことは手放せる。美容部員からコーセー初の女性取締役に抜擢され、84歳の現在も現役経営者として活躍し続ける伝説のヘア&メイクアップアーティスト・小林照子さんの著書『人生は、「手」で変わる。』からの本連載。第4回は、「毎日がつまらない」「人生嫌なことばかり」と悩む人へのメッセージ。

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 私は10歳から20歳までを山形県で過ごしました。生まれは東京ですが、生みの親、育ての親、義理の親たち5人に育てられ、10歳のときに山形に疎開。養父は元々、家具メーカーを経営していましたが、転身して防空資材をつくる会社を東京・日本橋室町で経営していました。が、昭和20(1945)年3月の東京大空襲で店は全焼。そして養父は店の再建を諦めました。養父、養母、私の山形暮らしが始まったのはそこからです。

 山形での暮らしが始まるのとほぼ同時期に、養母は骨盤カリエスで起き上がれなくなりました。骨盤カリエスというのは、骨盤の骨質がこわれていく病です。養母は寝たきりになりました。でもプライド高き養父は、ひとに頭を下げて、農作業の仕事をもらいにいくなどということはできません。一家の収入を、私が支えていくのは当然のことでした。

 18歳のときに暮らしていたのは、町の「幸八(こはち)」という駄菓子屋さんの2階にある四畳半の部屋です。そこで3人で暮らしながら、私は小学校の給仕として働いていました。ボロボロの駄菓子屋さんを切り盛りするのは、町で一番のケチとして有名な、お団子頭のおばあさんでした。

 しかし、町の人たちは「コハチのばばあは、ケチだけど心根はやさしい」と口々に言っていました。

 まるで昔の映画のような設定ですが、その駄菓子屋さんの近くには八幡様があって、その入口には大きな欅(けやき)の木がありました。その木には大きな穴が開いていて、中ではいつも捨てがニャーニャー鳴いていたのです。

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捨て猫を飼ってあげたいと言うと大家さんは…