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人生はみずからの手で切りひらける。そして、つらいことは手放せる。美容部員からコーセー初の女性取締役に抜擢され、84歳の現在も現役経営者として活躍し続ける伝説のヘア&メイクアップアーティスト・小林照子さんの著書『人生は、「手」で変わる。』からの本連載。第4回は、「毎日がつまらない」「人生嫌なことばかり」と悩む人へのメッセージ。
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私は10歳から20歳までを山形県で過ごしました。生まれは東京ですが、生みの親、育ての親、義理の親たち5人に育てられ、10歳のときに山形に疎開。養父は元々、家具メーカーを経営していましたが、転身して防空資材をつくる会社を東京・日本橋室町で経営していました。が、昭和20(1945)年3月の東京大空襲で店は全焼。そして養父は店の再建を諦めました。養父、養母、私の山形暮らしが始まったのはそこからです。
山形での暮らしが始まるのとほぼ同時期に、養母は骨盤カリエスで起き上がれなくなりました。骨盤カリエスというのは、骨盤の骨質がこわれていく病です。養母は寝たきりになりました。でもプライド高き養父は、ひとに頭を下げて、農作業の仕事をもらいにいくなどということはできません。一家の収入を、私が支えていくのは当然のことでした。
18歳のときに暮らしていたのは、町の「幸八(こはち)」という駄菓子屋さんの2階にある四畳半の部屋です。そこで3人で暮らしながら、私は小学校の給仕として働いていました。ボロボロの駄菓子屋さんを切り盛りするのは、町で一番のケチとして有名な、お団子頭のおばあさんでした。
しかし、町の人たちは「コハチのばばあは、ケチだけど心根はやさしい」と口々に言っていました。
まるで昔の映画のような設定ですが、その駄菓子屋さんの近くには八幡様があって、その入口には大きな欅(けやき)の木がありました。その木には大きな穴が開いていて、中ではいつも捨て猫がニャーニャー鳴いていたのです。