「高校から帰宅すると、父とお客さんが聞いたことのない言葉で話をしていました。お客さんの靴が玄関に置かれていましたが、とても古くて汚れていたので気の毒に思い、磨いてあげました。お客さんは帰る時に自分の靴が綺麗になっていることに気づきました。玄関口に立っていた私と彼はお互いを見つめ合い、顔を赤らめました」
娘をユダヤ人難民と結婚させるというフロイデルスペルガーの決断は単純なものではありませんでした。なぜなら彼が生まれたオーストリアは40年当時、すでにドイツの一部であり、人種差別主義のナチス政権に支配されていたのです。何年にもわたる反ユダヤ主義運動により、ドイツだけでなく他の国々のユダヤ人も迫害されて殺されました。フロイデルスペルガーは東京のドイツ大使館との接触があったにも関わらず、気にすることなく娘とユダヤ人を結婚させたのです。本当に特別な人でした。
アイゼンバーグはフロイデルスペルガーの娘であるノブコとの結婚後も東京で暮らしていましたが、次第に激しくなる米国による空爆から逃れるため軽井沢近くの長野県御代田村(当時)に移り住みました。少ない食糧で厳しい暮らしを送り、軍のために村の人たちと共に労働に駆り出されることもありました。終戦を迎え、二人は焼け野原になった東京に戻ってきました。御徒町(東京都台東区)に小さな家を借り、当時の多くの日本人がそうであったように、生活を一から立て直しました。
正規の教育を受けていなくてもビジネスマンとして成功できるということを、アイゼンバーグは身をもって証明しています。戦後の東京で、占領軍の将校とつながりを持ったことをきっかけに米国と日本の会社の仲介業を始めました。1950年代には韓国にビジネスを広げます。韓国の工場や様々なビジネスに投資を始めたのです。韓国だけでなく徐々に東アジア諸国にビジネスの領域を拡大していき、貿易、不動産、電気通信、銀行、エネルギーなどの幅広い分野にまたがりました。韓国では成功する前のサムスンにも融資をしています。