また、アイゼンバーグは中国市場に参入した最初の外国人の一人です。1970年代には中国国内に複数の工場を所有しました。その後は欧州、南米、アフリカ、中東にも投資範囲を拡大します。イスラエルでも複数の化学工場を購入しています(私の父親はそのうちの一つである死海の工場に勤めていました)。彼はまさにグローバルビジネスマンであり、世界中に構えたオフィス間をプライベートジェット機で移動していました。自身の会社のために研究所を設立し、化学や工学から、財務やビジネス文化に至るまでの幅広い専門知識を持ち、当時の各分野の最高の人材を採用しました。この時点で、アイゼンバーグは世界でロスチャイルド家に次ぐ裕福なユダヤ人となっていました。

 アイゼンバーグはユダヤ系ウクライナ人の友人であるミハエル(ミーシャ)・コーガンと共に東京のユダヤ人コミュニティーの主要なスポンサーにもなりました。アイゼンバーグがそうであったように、コーガンはロシア革命から逃れるために中国のハルビンへ渡り、そして日本へとたどり着いた難民でした。戦後は日本で貿易会社を設立し、自動販売機やジュークボックス、パチンコ等の機械を輸入販売することで財を成します。この会社は後に、ゲーム開発で有名な「株式会社タイトー」となり、日本を代表するアミューズメント企業の一つとして大きく成長します。アイゼンバーグは、渋谷区広尾に今でも存在するユダヤ人コミュニティー建設のために資金提供し、横浜の外国人墓地(ガイジンボチ)にはユダヤ人区画を作るための土地も購入しました。

 一人のユダヤ人であるアイゼンバーグにとって、イスラエルは特別な場所です。彼は多くのイスラエル企業が中国市場に参入する道を開き、イスラエルと中国の外交関係を確立する上で重要な役割を果たしました。52年にはイスラエルの市民権を取得しましたが、まだ日本に住み続け、68年にイスラエルのテルアビブの富裕層が住む地域に家を購入した後に、毎年数カ月はそこに住むようになりました。5人の子ども(1男4女)全員に対しては、イスラエルに来て兵役を務めることを指示しています。イスラエルの彼の家には和室が作られ、数人の首相を含む多くのイスラエル人ゲストを迎えました。歴代唯一の女性首相であるゴルダ・メイア(在任期間1969年~74年)にとっては初めて触れる日本文化でした。

 アイゼンバーグは97年、中国の北京に構える自身の事務所で86年の生涯に幕を下ろしました。ユダヤ人難民として日本に渡り、その地を故郷とし、想像を超える成功を収めた彼は20世紀を生きた偉人の一人であり、その物語は苦難の中で今を生きる多くの人々にも勇気を与えるはずです。
 現在私は、日本でアイゼンバーグについての本を書いています。アイゼンバーグ本人についてや、東京のユダヤ人コミュニティーの歴史に関する情報をお持ちの方はご連絡いただけましたら幸いです。
(nissimot@gmail.com)

○Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)/国立ヘブライ大学教授、同大東アジア学科学科長。トルーマン研究所所長。1996年、東洋言語学院(東京都)にて言語文化学を学ぶ。2000年エルサレム・ヘブライ大にて政治学および東アジア地域学を修了。07年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士号を取得。同年10月、アジア地域の社会文化に関する優秀な論文に送られる第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」を受賞。12年エルサレム・ヘブライ大学学長賞を受賞。研究分野は「日本政治と外交関係」「アジアにおける日本の文化外交」など。京都をこよなく愛している。

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