今年も12月に入ってしまいました。
なんだか、あっという間でしたね。
特に、8月に会社を辞めてからが早かった。
会社を辞めてからすぐに始めるつもりだった仕事がひとつ、とんだこともあり、この三ヶ月、まとまった仕事もしないでボヤボヤしてただけなのに、なんでこんなに時間が経つのがはやいの、と驚いています。
部屋の片付けなど、「会社を辞めたらやるぞ」と宣言していたことも全然やれてなくて、まずいなあという気持ちだけはあるのですが、なんだか一日はあっという間に流れていってしまう。
会社に行ってた時の方が、メリハリがついて、却って仕事が出来ていたのかもしれません。
毎日、自分で自由になる分、早めに新しいペースを作りたいなとは思っているのですが。
それでも、あきらかに会社勤めの間は出来なかったこともあります。
平日の名画座通いも、その一つ。
渋谷にシネマ・ヴェーラという名画座があります。
古い邦画の特集なども定期的にやっていて、以前から気になっていた映画館でした。ただ今までは、全然時間がなくて、興味のある特集をやっていても、仕事にかまけて忘れていたり、思い出しても時間が合わなくてあきらめたりの繰り返し。
スペインから帰ってきて、ふとこの名画座のことを思い出してホームページを覗いてみたら、ちょうど川島雄三の特集をやっていました。
これは嬉しい。
気づいた時にはもうプログラムは半分くらい消化されていたのですが、それでも8本くらいは観られたかな。
平日の昼間に連日名画座に通うなんて、学生の頃以来ですから、かれこれ30年ぶり。幸せでしたねえ。
翌月は、市川崑の初期作品特集でした。
こちらのラインナップは結構DVDを持っている作品が多かったのですが、それでもいくつか見逃していた作品を観ることが出来ました。
川島、市川ともに戦後すぐから昭和30年代の作品が中心だったのですが、そこで改めて気づいたのが、獅子文六原作作品の多さです。
かつては大人気の作家だったのだなと改めて認識しました。
僕の世代だと、中学高校だとまだ本屋の文庫の棚に彼の著作がずらりと並んでいたりしたので、名前に記憶にはあるのですが、さすがにその当時でも"一昔前の作家"もしくは"おとなが読む作家"というイメージでした。
自分には関係のない作家というくくりですね。
星新一や筒井康隆に夢中の中学生だから仕方がない。せいぜい安部公房や石川達三までかな、手を伸ばしたのは。
獅子文六と似た印象があるのは石坂洋次郎とか源氏鶏太ですかね。いつでも文庫の棚には彼らの作品が並んでいる。夏目漱石や太宰治と同じように古典の領域に入っている作家だと、十代の頃には思っていたのですが、気づいたら、すっかり見なくなっていました。
今にして思えば戦後の流行作家のはしりだったのでしょう。僕が幼い頃は、まだ彼らの作品の映像化も結構ありましたしね。
子供の時に普遍だと思っていた物がすたれていくのは、それがそれほど思い入れがないものでも寂しいものですね。
獅子文六に話を戻しますが、今回、彼の原作作品を三本観ました。
川島監督の『箱根山』『特急にっぽん』、市川監督の『青春怪談』。
いずれも人間関係がモダンなのに驚きました。
特に『青春怪談』なんて、三橋達也のドライなキャラと、父親からも本当に自分の娘が女性かどうか訝しがられる北原三枝の造型など、若い時の自分が観たらもっと大喜びしていただろうなと思います。10代?20代の頃は、僕もウェットな人情芝居が嫌いでしたから、こんなにドライでいながら非人道的ではない映画があったと知ったら、もっと追いかけていたでしょう。当時、「日本映画=ウェット」と決め込んでいた自分が恥ずかしい。
まあ、その認識は古澤憲吾の植木等ものや中平康の作品を観ることで改まっていくのですが。
しかし、気になるのは獅子文六の原作です。原作もやはり、映像作品のようにモダンなのかな。映画の人物造型が、どこまで原作に依っているのか。一昔前のユーモア小説と思っていましたが、今読んでも面白いのかもしれません。