東京都武蔵野市の北部に位置する都立武蔵野中央公園は、約10万平方メートルの敷地をもち、都内では珍しい広大な芝生広場が造られている。周辺を含めたエリアは、旧帝国海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)用など、日本最大の航空機エンジン工場だった中島飛行機武蔵製作所の跡地で、いまのURひばりが丘パークヒルズ(ひばりが丘団地)にあった中島航空金属田無製造所との間に、簡易鉄道が敷かれていた。線路は米軍の爆撃によって徹底的に破壊されて痕跡を留めず、“幻の鉄道”とされていた。1990年代の地元保谷市(現・西東京市)公民館の聞き取り調査により、そのルートが確認されるなど、概要が明らかにされた。
■軍需工場専用線から野球場へのアクセス路線に
中島飛行機はいまのSUBARU(スバル=旧・富士重工業)の前身で、海軍の技術将校だった中島知久平(ちくへい)が1917年に設立。陸軍の主力だった一式戦闘機「隼(はやぶさ)」を開発するなど、太平洋戦争時には三菱重工業と並ぶ国内トップの航空機メーカーに成長していた。総生産機数は、約3万とされている。
武蔵野中央公園周辺にあった、おもに陸軍機用の武蔵野製作所と海軍機用の多摩製作所が43年に統合され、武蔵製作所と改称された。総面積は56万平方メートル。広大な武蔵野中央公園の敷地も、その一部にすぎない。“東洋一の航空機エンジン工場”と称された武蔵製作所は戦争末期、アメリカ軍の最重要爆撃目標とされた。計9回に及ぶ空襲によって工場で200人以上が亡くなり、周辺住民も多数犠牲となった。
戦後の1951年、武蔵野製作所跡地の一部にプロ野球・国鉄(現・東京ヤクルト)スワローズの本拠地化も見据え、武蔵野グリーンパーク野球場がオープンした。国鉄は中央線の武蔵境駅から武蔵野製作所へ延びていた工場専用線の一部を利用して、三鷹駅から野球場最寄りの武蔵野競技場前駅への支線・武蔵野競技場線(全長3.2キロ)を建設した。