グリーンパーク野球場は収容人員約5万という本格的なスタジアムだったが、当時の認識では都心から遠く、砂煙がひどかったことなどから入場者数は伸びず、選手からも不評だった。
結局、51年シーズンはプロ野球16試合・東京六大学野球19試合の開催に留まり、翌52年に明治神宮野球場が連合国軍から返還されたこともあって、両リーグともグリーンパークで公式試合を開催することはなくなった。列車の運行も51年限りで実質的に休止となり、59年に正式に廃止された。
武蔵野競技場線の跡地は遊歩道として整備され、三鷹市内が「堀合(ほりあわい)遊歩道」、武蔵野市内が「グリーンパーク遊歩道」として、武蔵野中央公園を訪れる人たちの散歩コースにもなっている。
グリーンパーク野球場跡地は、UR武蔵野緑町パークタウンに姿を変えた。団地の案内図を見ると、敷地を囲む道路が緩やかな楕円形に造られていて、野球場だった頃の平面図が想像できる。武蔵野競技場駅跡地は、武蔵野市高齢者総合センターにあたる。そこから西へ、バス通りに沿って細長くマンション群が延びている。それが廃線跡で、マンションが建つまでは国鉄の官舎が並んでいた。
■大規模団地に姿を変えた中島航空金属の工場
一方、武蔵野航空金属田無製造所へも、武蔵野鉄道(現・西武鉄道池袋線)東久留米駅から専用線が延びていた。「東久留米構外線」と呼ばれ、おもに軍用機のエンジンを製造するための鋳型用の砂や、燃料を運搬していた。雨宮(あめのみや)製作所製のC型(動輪が3軸)の小型蒸気機関車(SL)が、数両の貨車を引いていたという。
東久留米駅の南側から落合川付近までは変電所や住宅地に姿を変えたが、築堤の一部や橋台跡が両岸に残る。また、川を渡った南側の廃線跡は「たての緑地」という遊歩道として整備されている。
遊歩道は東京電力の送電ルートになっているため、頭上に送電線が続き、所どころに高圧鉄塔が建てられている。その都度遊歩道は左右に分かれ、鉄塔を迂回していく。遊歩道の南端部は東久留米市立南中学校の近くで、その先の廃線跡は完全にURひばりが丘パークヒルズ(ひばりが丘団地)の建物群に埋もれている。
中島航空金属田無製造所跡地南側のごく一部はいま、住友重機械工業田無製造所となっている。入り口の門柱はかつての正門だったという。