彼の地の昔ながらの信仰は、その土地の形状や、地形の生み出すところから醸される気配のようなものに対しても強くある。そういうところを根こそぎ破壊されたりすることが、精神的な蹂躙でなくて何だろう。崩された土地が穏やかに落ち着くまで治水を行い、草木を養生する、つまり「土地を癒す」ということもまた、考えられていいことであったが、現実はそれどころではなかった。

 米軍は1945年、読谷村の浜に上陸してすぐに、南進するための拡張道路をブルドーザーなどでならしつつ造っていった。日本軍との戦いを行いながらの一方で、である。生き残った住民の方々の目には、その光景がどう映ったのだろうか。察して余りある。

 3.11の地震による津波で一変した風景についても、失われた人命を思う、胸が張り裂けそうな悲しみとほとんど同時に、地元の方々には、故郷そのものだった風景を破壊された深い傷つきが生じたに違いない。私たちは皆そのことを心のどこかで承知していたからこそ、まるで自分の故郷が取り返しのつかない暴力を受けたかのような思いに襲われたのではなかっただろうか。

 風景の痛みと個人の痛みは、決して無関係なものではない。だが繰り返すが、現実はそれどころではないので、とりあえず目に見えないそういう部分は、後回しにされ、永久に表沙汰にされず、人の精神の深い闇に追い込まれ、深層に埋もれたまま、日の目を見ることはない。

『椿宿の辺りに』の主人公は、痛みの原因を探るべく、先祖の屋敷へと赴く。そして、先祖と屋敷にまつわる、今まで知らなかった事柄が次々に判明していくのだが、だからと言って何が解決したというわけでもない。兄弟間の奇妙なバランスや、いつバランスが崩れるかわからない、大昔に起こった地震の影響で変わってしまった地形の、今に続く「無理」。けれどそのことを承知しておく、というだけで、いつの間にか彼の痛みは治っている。かといって、それはまた、いつ再開するとも限らない、頼りない治り方だ。

 意識の表舞台に引き出された諸々の物語。椿宿という「ツボ」は、あてどなく彷徨う「意識の焦点」ともいえる。兄弟神話の深層から、埋もれた地層のからくりへ。解決というものはない。ただ日々は、意識の焦点が移りゆくことで、晴れやかになったり翳りを帯びたりしながら流れていく。なんとなく、そういうことを書こうと思った。

※「一冊の本」5月号より