彼らは毎日、担当の選手に投げるから、いいときも悪いときも、コーチ以上に打者の状態を知っている。監督、コーチは打者の背後の打撃ケージ越しに見る。しかし打撃投手は打者と正対するから正面から見ている。そのため打者も自分の調子の良しあしを打撃投手に聞くことも多い。

 1994年、イチローがシーズン最多安打(当時)を達成した年にオリックスで彼の専属打撃投手を務めたのが、「イチローの恋人」と呼ばれた奥村幸治(現NPO法人ベースボールスピリッツ理事長)である。彼の球歴は通常の打撃投手と変わっており、プロ野球選手の経験はない。高校時代は速球投手として鳴らしたが、背が170センチほどしかなかったため、ドラフト指名を見送られた。プロの世界を経験してみたいとオリックスの打撃投手として93年に入団した。

入団時、奥村は20歳、イチローは19歳。寮の隣部屋同士だった。年も近いので二人はごく自然に親しくなった。寮では「広島の前田智徳選手のようになりたい」と話していた。

 この年(1993年)イチローは1軍昇格を果たすが、コーチ陣との意見の食い違いもあって2軍に戻ることもあるような不本意な日々だった。2軍でもイチローの練習量は群を抜いており、チームの練習後も一人残ってマシン相手に黙々といつまでも打ち続けた。

 奥村は述懐する。

「その姿は殺気立っていました」

 その努力は翌年開花する。94年に仰木彬が監督となると、彼はイチローの卓越した打撃センスに注目して、1軍のレギュラーに抜擢し、登録名も「鈴木一朗」から「イチロー」に変え、打率も4割をうかがう成績で、9月20日には前人未到のシーズン200安打を達成した。奥村はこの年は毎日イチローの打撃投手を務めた。

「すでに振り子打法も身についていましたから、打球の速さもはんぱじゃなかった。しかもすっごい飛ぶんですね。グリーンスタジアム神戸でどんだけ場外ホームランを打たれたことか。ホームランだけ打てと言われたら松井秀喜選手より打てますよ」

 イチローの打撃練習も他人とは違っていた。通常は打撃投手は打ちやすいようにスピードを殺して投げる。だがイチローは実戦形式で奥村に全力投球を求めた。生きたボールを打つことで、より試合に近い形式の練習をしたかったのである。

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